住宅街の誕生
「土地資本主義」の始まり

田園調布
田園調布(1930年ごろ)


 徳川家康が江戸に入ったのは1590年のことです。翌年、功績のあった家臣・内藤清成は、新宿近辺に屋敷地をたまわります。その際、家康は、「一時(いっとき=2時間)馬を走らせ、回っただけの土地を授ける」と言いました。清成は駿馬に乗り、草ぼうぼうの荒れ地を必死に駆けめぐり、四谷から代々木周辺の広大な土地を手に入れました。
 新宿は、もともと「内藤新宿」といいましたが、その名称は内藤家から来ています。

駿馬碑(多武峯内藤神社)
駿馬碑(多武峯内藤神社)


 江戸時代は土地の売買が禁止されていましたが、1872年(明治5年)、政府は土地の売買を解禁。翌年、地租改正により、地価の100分の3を「地租」として納税するよう決定します。
 これで困ったのは広大な土地を所有していた内藤家です。巨額の税金に手を焼き、不要な土地を1坪5厘という破格値で政府に売却します。これが、現在の新宿御苑となりました。

新宿御苑
新宿御苑


 当時、こうした不要な土地が格安で流通しはじめました。1872年、後に三井銀行となる三井小野組合銀行が設立されますが、三井銀行は土地を担保に金を貸し付け、抵当流れした膨大な土地を次々に手に入れていきました。これが三井不動産の源流です。

 現在、土地は私有財産の基本となっていますが、日本人は、当初、なかなかそうした意識を持てませんでした。
 江戸時代が終わると、東京には広大な大名屋敷跡が残されました。政府は、茶や桑を植えるのを条件に安価で土地を払い下げますが、土地の私有という概念が薄かった時代だけに、誰もわざわざ土地を手に入れようとは思いません。

 そんななか、開明的だった福沢諭吉は、三田に広大な土地を手に入れることに成功します。
 福沢諭吉が、中津藩の中屋敷内(現在の聖路加国際病院前)に蘭学塾を開いたのは1858年です。1868年、慶応義塾と改名し、1871年(明治4年)、三田に移転します。

慶應義塾発祥の地
慶応義塾発祥の地

 
 この三田の土地はもともと島原藩の中屋敷があったところで、約1万2000坪を貸し下げられ、翌年、払い下げられます。慶応義塾と称してわずか3年でこれだけの土地を手に入れることができたのは、繰り返すように、当時まだ土地を欲しがる人がほとんどいなかったからです。

 そんななか、三菱は丸の内の草っ原6万坪を坪13円、神田三崎町1万坪を坪7円ほどで陸軍省から押し付けられます。広大な荒れ地の購入は、当時の誰からも馬鹿にされましたが、これが後に巨大な資産となったことは言うまでもありません。こうして三菱地所が生まれました。

 かつて、東京最大の地主と噂されたのが、尾張屋銀行の峯島喜代(峰島喜代子)です。峯島家は旧家で、代々、質屋を営んでいました。夫に先立たれた喜代は、1877年(明治10年)、西南戦争で暴落した公債を買い占め、巨額の資産を作ります。その後、明治19年頃から公債を売り払い、土地への投資を加速させます。

 喜代が最初に買った土地は、神田小川町の6000坪の土地だとされます。明治20年頃、坪5円で買ったものですが、30年ほどたつと坪150円になりました。御徒町そばの10万坪の土地は、坪10円台だったものが、やはり30年で坪60円ほどに高騰しました。

 その後、尾張屋銀行を設立した喜代は、不動産を担保にカネを貸す、当時としては極めて珍しいビジネスモデルで、さらに大量の土地を手に入れることに成功します。この会社は、現在、尾張屋土地という企業になっています。なお、新宿の歌舞伎町を開発したのも峯島喜代の功績です。

 そのほかの例をあげれば、神田三崎町で牧場を経営していた牛乳屋「愛光舎」が西巣鴨の土地で大儲けしています。
 1887年(明治30年)、坪1円ほどで買った土地が、30年で坪35円に高騰。経営者だった角倉賀道は日本で初めて牛乳の蒸気殺菌を行った人物で、その後、天然痘ワクチンの増産にも貢献しています。

江戸時代の巣鴨
江戸時代の巣鴨(増上寺の寺領)

巣鴨
巣鴨(1910年ごろ?→1920年ごろ)


 不動産の価値が日本人になかなか理解されなかったエピソードをもう一つあげておきます。
 渋谷駅は、1885年(明治18年)、田んぼと野原の真ん中に開業しますが、このとき、地元で2派の対立が激化していました。一派は、渋谷へ外部の人間が入り込むのを嫌がる人たち、もう一派は、人の流入を喜ぶ人たち。

 後者の人たちは、村の発展のため、鉄道の建設時に喜んで土地を売りましたが、前者の人たちは土地を売らず、頑なに土地を死守しました。その結果、村の発展を願わなかった人たちが土地で大儲けしたのです(『将来の東京 郊外と土地』殖産の研究社、大正8年刊による)。

渋谷
渋谷(1910年ごろ?→1920年ごろ)


 1907年(明治40年)ごろまで、こうした民間の土地は、それほど活用されてきませんでした。工場の敷地や有力者の邸宅などのほかは、借家ぐらしが当たり前だった庶民に安く貸されてきました。

 ところが、明治40年代から大正の初めにかけて、大規模な住宅地の分譲を行う業者が登場します。その背景には、明治40年、内務省の有志がイギリスのハワードが唱えた「田園都市構想」を日本に紹介したことがあります。これは職住一致の住宅地の概念です。

ハワードの田園都市
ハワードの田園都市(国会図書館)


 実際の住宅地の分譲は、関西から始まりました。有名なのが「箕面有馬電鉄」(現在の阪急電鉄)で、1909年に大阪の池田で土地の開発を始めます。阪神電鉄も、同年、兵庫の西宮を皮切りに住宅の分譲をスタートさせています。

 一方、東京ではやや遅れ、大正中期ごろから分譲が始まりました。有名なのが「田園都市株式会社」(現在の東急グループ)と「箱根土地」(現在の西武グループ)です。

 渋沢栄一が中心となった「田園都市」は調布、玉川などで分譲地を開発。その後、1923年(大正12年)に田園調布の売り出しを始めています。洗足もこの会社が開発した住宅地です。田園都市は、後の東急となり、日吉(慶応義塾大学)や新丸子(日本医科大学)を開発、大学を誘致する学園都市構想を進めます。

洗足
洗足(1930年ごろ)


 箱根土地は、軽井沢や箱根で別荘地の開発をしていましたが、その後、目白文化村、大泉学園、小平などの住宅地開発を進めました。こちらも、国立(一橋大学)などで学園都市を作ります。

鉄道と道路の開通が支えた郊外の開発
鉄道と道路の開通が支えた郊外の開発


 前述のとおり、庶民が土地を買う時代ではなかったので、分譲地は「文化住宅」などハイソな演出が行われました。
 岸田國士が1925年(大正14年)に公表した『紙風船』という戯曲に、こんな場面があります。

夫(新聞を読みながら)「米国フラー建材会社のターナー支配人が、1日、目白文化村を訪れて、おおロスアンゼルスの縮図よ! と申しましたように、目白文化村は今日、瀟洒たる美しい住宅地になりました」
妻(縁側で座蒲団を敷いて編物をしながら)「なに、それは」
夫(読み続ける)「4万坪の地区には、整然たる道路、衛生的な下水・水道・電熱供給装置、テニスコート等の設備があり、多くの小綺麗なバンガローや荘重なライト式建築、さては、優雅な別荘風の日本建築などが、富士の眺めや樹木に富む高台一帯の晴れやかな環境に包まれて……」
 (新聞を投げ出し)「おい、散歩でもして見るか」

 目白文化村は、もともと近衛篤麿公爵が所有していた広大な敷地に作られました。地震で被害を受けた学習院を移転させたとき、周辺の土地を買収したのです。その土地の周辺を箱根土地の堤康次郎が次々に買収し、1922年から分譲が始まります。

学習院
四谷にあった移転前の学習院(『少国民』明治26年1月号)


 首相を務めた石橋湛山や安倍能成(学習院院長、文部大臣)、東京帝大教授などが住みました。近辺に、学習院の寄宿舎「昭和寮」が、現在、日立目白クラブとして残されています。英国「イートン校」をモデルに、1928年(昭和3年)に建てられました。
 池袋近辺の住宅街は、「落合文士村」「長崎アトリエ村」などと呼ばれる高級住宅街を形作っていきました。

日立目白クラブ
日立目白クラブ


 当時の高級住宅街の様子を、もう少し詳しく書いておきます。この頃、水道や電気はまだまだ未整備でした。池袋近辺では、1921年の水道の拡張工事が行われるまで、まともな水道・下水は来ていません。
 目白文化村の近くには、「愛隣園」という高級借家街がありました。この借家の水道や電気について触れた記録が残されています。

《愛隣園の配水所は、高さ3間半、間口奥行3間くらいのレンガ造りの建物の中に、高さ2丈、直径6尺ばかりの鉄製水槽が2つ並び、気圧式給水装置で、それぞれ2000ガロン(50石)の水が自動的に揚水されている。掘削された2つの井戸の深さは45尺と50尺で、水は清く、濾過されており、夏は冷たく冬は温かい。

 汲み上がった水は、ガルバナイズド処理(亜鉛めっき)された本線2インチ、支線1.2インチの水道管で各戸に配水される。
 
 下水は、各戸より土管を経由し、道路の両側に掘られた深さ1尺の石組み溝まで流される。溝には、泥水がきちんと流れるよう勾配がつけてある。水道の消火用ホースでときどき掃除するから、悪臭をさらすことはない。

 電力は電力会社から直接購入しており、各戸に電灯をつけている。
 水道も電気も、普通の使用量ならば家賃に含まれている。

 愛隣園の中央には、200〜300坪の共同庭園があり、家々は2間の道路を隔ててこれを囲んでいる。庭園の真ん中にあずま屋と6つのベンチがあり、四季折々の花を愛し、武蔵野の情緒を味わえる》(1919年2月刊行『殖産之研究』より改変引用)

大森
大森(1910年ごろ?→1920年ごろ)

 
 こうして、借家は高級化し、徐々に分譲も増えていったのです。
 そして、1923年、関東大震災で、都心の住宅は壊滅。都心にはバラックが並び、郡部などはるか郊外にまで住宅地が広がっていきました。

 目白文化村をはじめとする池袋近辺の高級住宅街は、1945年4月13日、米軍の「山の手空襲」で大きな被害を受けました。戦後になって多くが売り飛ばされ、土地の細分化も進みました。さらに1967年に新目白通りが開通し、目白文化村は東西に分断されてしまうのでした。

蒲田
蒲田(1910年ごろ?→1920年ごろ)

文化住宅の誕生
大阪・軍艦アパート
五島慶太が作った東急と渋谷
ライト式建築の誕生と歴史
復興建築
土地私有の歴史/地価の誕生
不燃都市・防空都市を作れ

制作:2019年6月20日

<おまけ>

 日本には、その他にも著名な土地成金がいました。毛利や徳川などの華族を除いた民間人を列挙しておきます。
 酒問屋の升本喜兵衛は、山の手の土地をタダ同然で手に入れ、大儲けしました。これが、現在の酒問屋・升本総本店の源流です。
 田中銀行の頭取だった田中武兵衛は、100カ所の大地主となり、麹町の本邸は、坪単価で50倍ほどになりました。
 広部銀行を創立した広部清兵衛は、東京市内に1万5000坪の土地を持っていました。この土地が後に箱根土地に流れます。
 西日暮里の道灌山には、渡辺銀行の渡辺治右衛門が住宅街を作りました。小石川にあった1万5000坪の海軍病院跡地は、坪10円で買ったものが後に坪50円になりました。昭和2年、渡辺銀行が倒産し、昭和金融恐慌となります。この影響で、同じく土地成金・中井新右衛門が創設した中井銀行は買収され、現在のみずほ銀行になりました。

 このほか、酒問屋・鹿島清兵衛、時計商・小林伝次郎、酒問屋・中沢彦吉、呉服太物商・村越庄左衛門、木綿問屋・建石三蔵、質屋・安井治兵衛、ヘチマコロンを販売した小間物商・天野源七、ヤマサ醤油に近い醤油問屋・浜口吉右衛門、酒問屋・高橋門兵衛などが民間で有名な土地成金です(『将来の東京 郊外と土地』による)。

大崎・五反田
大崎・五反田近辺(1910年ごろ?→1920年ごろ)
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