城下町の誕生
月山富田城から松江城へ

松江城
松江城



 島根県松江市は、城下町として知られています。
 松江の観光で最も有名なのは、お堀をぐるっと廻る堀川遊覧船だと思いますが、この船に乗ると、城下町として鉄壁の防御がおこなわれていることがわかります。

 たとえば、日本銀行の旧松江支店が堀沿いに建っていますが、このあたりには、戦国時代、「勢溜(せいだまり)」と呼ばれる広大な広場がありました。橋を渡ってすぐに広場があるため、敵はこの場所に溜まることになり、そこを鉄砲隊が一網打尽にする仕組みです。

日本銀行の旧松江支店
旧日銀松江支店




 また、北堀橋は道路とわざとずらして架けられていたため、敵が勢いよく攻めこんでくると、いきなり道がなくなって、勢い余った兵士が堀に落ちてしまう形になっていました。これを「筋違橋(すじかいばし)」といいます。これは道にもあり、見通しを悪くして敵の進軍を止める「鉤型路」(かぎがたろ)がいくつもありました。

わざと見通しを悪くした「鉤型路」
わざと見通しを悪くした「鉤型路」




 そもそも、この航路自体、城の内堀と外堀をめぐります。松江城にはかつてその間に中堀もありました。戦国時代の火縄銃では、このお堀越しに撃ったところで、被害を与えることはできません。石垣にも特徴があって、たとえば「横矢枡形」という石垣は、堀を進んできた敵の船に対し、非常に攻撃しやすい形になっています。

 そんなわけで、今回は松江を舞台に、城下町の誕生についてまとめます。


敵の船を左右からも攻撃できる「横矢枡形」
敵の船を左右から攻撃できる「横矢枡形」




 戦国時代、中国地方を治めた武将として大内氏・毛利氏が知られますが、もうひとつ尼子氏も有名です。その拠点となったのが、島根県安来市にある月山富田(がっさんとだ)城です。

 月山富田城の築城は、平安末期とも鎌倉初期とも言われます。源平合戦の時代、平家の平景清によって築かれたとの伝承もありますが、定かではありません。その後の1395年、尼子持久が守護代として入城し、孫の経久が本格的に整備、難攻不落の山城としたとされます。

 実はこの城、2006年には「日本百名城」に選ばれ、2019年には、雑誌『歴史人』で満点評価され、全国の山城第1位の栄誉に輝いています。いったい、なにがすごいのか見ていきましょう。


道が曲がりくねり、攻撃しにくい月山富田城
道が曲がりくねり、攻撃しにくい地形




 日本一と言われるには、いくつかの理由があります。まず第一に、山頂からの眺めが非常によいこと。
 第2に、戦国の山城の特徴が明快なこと。この城は非常に広大で、山頂から伸びた尾根に、一説には500とも言われる膨大な数の「曲輪(くるわ)」がありました。曲輪とは「郭」とも書きますが、要は防御のための平坦な場所です。敵の動きを計算した曲輪が続くわけで、攻めるのは非常に難儀します。

 また、山頂に続く道は急坂「七曲がり」となっていて、やはり攻撃しにくい構造です。敵はジグザグに進まざるを得ず、いたるところで側面から攻められたりします。山頂の本丸と二ノ丸の間には、深さ7~8メートルの「堀切(空堀)」があり、誘い込んだ敵を挟み撃ちにすることが可能です。

 実際に、この城は、険しい地形のおかげで100年ほど陥落せず、尼子氏6代の居城として栄えました。大内義隆はついに攻め落とせなかった城ですが、毛利元就は兵糧攻めによってようやく勝利し、中国地方の覇者となったのです。

「堀切」に来た敵を本丸と二ノ丸からはさみうち
「堀切」に来た敵を本丸と二ノ丸からはさみうち



 
 歴史的な意味合いで言うと、この城は、戦いに特化した「戦国の城」の特徴と、国を治める「近世の城」の両方の特徴をあわせ持つ珍しい城とされています。

 建築技術史的な評価でいうと、中世の「土」中心の城から近世の「石」中心の城への変遷がわかることでも評価されています。尼子氏の時代は大きな土の壁「土塁」を造って防御しました。しかし、尼子氏が滅んだ後に入城してきた吉川氏、堀尾氏が、月山富田城に巨大な石垣を築いていくのです。先の「堀切」も、「石」の時代の賜物です。

 1591年、秀吉の命で月山富田城にやってきた吉川広家は、朝鮮出兵や関ケ原の戦いにこの城から出陣しています。吉川は朝鮮出兵などで築城技術を学び、石垣の算木積み(石垣が崩れないように細長い石で角を強化)などを次々に導入していくのです。吉川は米子城も作り、島根の発展に貢献します。

 関ケ原の戦いが終わると、堀尾吉晴・忠氏親子が月山富田城にやってきます。そして、10年ほどたち、堀尾吉晴は松江城を建設し、この城を支城に格下げします。

 いったい、なぜ松江に移転することになったのか。

月山富田城の模型(安来市立歴史資料館)
月山富田城の模型(安来市立歴史資料館)




 松江に移った理由として、月山富田城を見下ろせる山(京羅木山)が近くにあって軍事的に不安があること、城下町を作ろうにも平地が少ないこと、出雲・隠岐両国を治める拠点としては不向きなことなどがあげられます。しかし、もっと大きな理由がありました。

 実は、巨大な山城を作る上で、経済的に尼子氏を支えたのは、中国山地から産出される鉄、石見銀山(大森銀山)の銀でした。また、交易も盛んでした。月山富田城のふもとには飯梨川が流れていますが、かつてこの川は中海、宍道湖とつながっており、山の中なのに船で往来できたのです。しかし、時代が下ると、徐々に水量が減り、この城から海に出るのは、かなり厳しくなったと考えられています。

 そもそも、戦国時代が終わり、世の中が平和になると、あえて山の中にこもる必要も減ってきました。それよりは、平地で暮らしたほうがいいと考えるのも当然です。


大日本輿地便覧「出雲」(国文学研究資料館蔵)
大日本輿地便覧「出雲」(国文学研究資料館蔵)



 松江といえば、宍道湖に沈む夕日が有名です。名高いスポットとして山陰合同銀行本店の展望台が知られますが、2022年10月、この付近の「白潟」という場所で、1000点以上の遺物が出土しました。松江城が築城される前の時代に使われた青銅製の倉庫の鍵や、有力者が持っていたと考えられる犬形の土製品です。実はこの白潟、1562年に成立した中国の地理書『籌海図編』にも記載されている、国際的な交易拠点でした。膨大な出土品は、中世の繁栄を裏付ける物証だったのです。


国立公文書館『籌海図編』
国立公文書館『籌海図編』




 堀尾吉晴は、きわめて交通の便がよく、経済的に繁栄していたこの地を高く評価し、松江城の建造を決めました。
 とはいえ、現在の松江市中心部はもともと入り海や湿地が多く、町の建造には不向きでした。そのため、築城工事の最大の眼目は、石垣を積んで堀をめぐらせることにありました。堀は運河でもあり、湿地の水が抜けるからです。こうして、山を切り崩し、巨大な堀を掘削する難工事の末、松江の街が作られました。

 1611年、松江城の完成直前に吉晴は死亡。その後、幕府の「一国一城令」により、月山富田城はまもなく廃城になりました。

 松江城は地味な外見ですが、それは質実剛健だった堀尾吉晴の性格に依ったと言われます。
 天守閣が黒ずくめなのは、煤(すす)と柿の渋を塗った板壁だからで、漆喰(しっくい)のような華美なものにはしていません。また、月山富田城の木材を松江城に流用しています。これは、「富」の文字が刻まれている梁(はり)が見つかったことから判明しました。

松江城「富」の文字が刻まれた木材
「富」の文字が刻まれた木材




 城を築く場合、もっとも重要なのは、自重をどのように支えるかです。松江城の場合、1階と2階、2階と3階、3階と4階というように、2階ぶんを複数の「通し柱」で支えています。しかも、外側と内側で交互に配置しているため、重さを分散させることが可能です。

 また、柱に板を張って金具などで留めることで、太い柱のように使う「包板(つつみいた)」と呼ばれる技法も採用されています。いずれも、少ない予算で城を建てるための工夫です。

 また、世の中が平和になりつつあったとは言え、戦闘用の「狭間」(さま=攻撃用の小窓)や「石おとし」はきちんと設置されています。殿様専用のトイレ(箱便所)にも、鉄砲を撃つための鉄砲狭間が作られています。最後の最後まで戦う気概にあふれた城ということです。

松江城の箱便所の鉄砲狭間
箱便所の鉄砲狭間




 松江城の藩主は、その後、京極氏、松平氏と代わり、明治を迎えました。
 1873年(明治6年)、版籍奉還を経て、松江城は陸軍省の所管となり、1875年、廃城が決まりました。全国の城が売却されるなか、地元の豪農が180円で天守を買い取り、奇跡的に保存されました。

廃城を知らせる文書「松江城を廃し」
廃城を知らせる文書「松江城を廃し」




 松江城天守は、1935年(昭和10年)、当時の国宝保存法で国宝に指定されましたが、戦後は重要文化財に格下げになっています。しかし、2012年、天守地階の通し柱に打ちつけられていた「祈祷札」2枚が発見されたことで、1611年(慶長16年)に完成したことが判明、2015年、姫路城、松本城、彦根城、犬山城に次ぎ、城郭として5番めの国宝となりました。

 破風の形が千鳥が羽を広げたように見えることから「千鳥城」とも呼ばれる松江城。信長の安土城、秀吉の大阪城のように天守閣から360度見渡すことができる望楼型で、「現存する唯一の正統天守」として国宝化を目指してきたわけですが、ようやく実現した形です。

江戸城・焼失の歴史
熊本城・被災と復興の歴史
名古屋城・幻の脱出ルート
城の見方・消えた城
城の見方・デザインと意匠
城の見方・防御力


制作:2023年5月7日

<おまけ>
 
 江戸時代初期の松江城下を描いた「堀尾期松江城下町絵図」には、伊賀久八などの名前が書かれており、松江城の山裾に伊賀者の忍者が住んでいたことがわかります。松江城を築いた堀尾吉晴は、浜松にいた頃、織田信長の伊賀攻め(天正伊賀の乱)から逃れた伊賀者を召し抱え、松江に連れてきたのです。ふだんは情報収集などを担っていたとみられています。

堀尾吉晴像
堀尾吉晴像
 
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