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大阪城の誕生
いまに伝わる「大大阪時代」の栄華

鉄骨組み上げ中の大阪城
鉄骨組み上げ中の大阪城


 大阪の梅田となんばを結ぶ幹線道路「御堂筋」は、かつて幅6m、長さ1kmほどしかないマイナーな道路でした。大阪を発展させるため、この道を幅44mに拡幅し、長さも4kmに伸ばし、ついでに地下鉄も通してしまったのが、第7代大阪市長の関一(せきはじめ)です。拡幅工事は1937年(昭和12年)に終了し、5月11日、御堂筋は開通の日を迎えます。

 関は、1923年(大正12年)に市長に就任すると、「生産の都」を目指して大阪改造に乗り出していました。

大大阪成立のイベント
大大阪成立のイベント


 1925年4月1日、大阪市は周辺町村を合併する市域拡張により、およそ3倍の面積となりました。140万ほどだった人口はついに200万人を超え、199万人の東京を抜いて日本一に。海外と比べても、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ世界第6位の規模となりました。この時代を「大大阪」と呼んでいます。

大阪市域拡張(同年発行された「大大阪明細地図」より)
市域拡張(同年発行された「大大阪明細地図」より)


 1923年の関東大震災で東京が大きなダメージを受けている間、大阪は繊維産業の中心地として、日本一の工業都市となっていました。そうした輝ける大阪の誇りが結実したのが、1925年3〜4月、天王寺公園と大阪城で開催された「大大阪記念博覧会」(主催は大阪毎日新聞社)です。

「大大阪記念博覧会」では、大阪の産業が大々的に展示されました。特に大きなテーマが、時代の最先端だった「電化」です。「電化の家」と呼ばれたパビリオンでは、電気ストーブ、電気飯焚器(炊飯器)、電気湯沸かし器といった電化製品が並べられ、観客に明るい未来を感じさせるのでした。

 この博覧会では、大阪城を作った豊臣秀吉も英雄として大々的に取りあげられました。3層のパビリオン「豊公館」が天守台に建てられ、秀吉ゆかりの美術品や歴史資料が陳列され、1カ月半の会期に約70万人が訪れる大盛況となったのです。

大阪城の天守閣跡に作られたパビリオン「豊公館」
大阪城の天守閣跡に作られたパビリオン「豊公館」


 大阪城は、梅田やなんばといった繁華街から2〜3km東に離れた場所に位置しています。なんでそんな場所なのかというと、大阪を南北に貫く高台・上町台地の北端なのです。実はこの場所、日本で初めて「首都」となった「難波宮」のそばに位置しています。西暦645年に即位した孝徳天皇は、翌年、施政方針を発表。その第2条に「初めて京師を定め」とあり、初めて首都となりました。難波宮は、645年から793年までのおよそ150年間、都として栄華を誇りました。その跡地のそばに秀吉が大阪城を建てたわけで、地元の人が大阪城を誇りに思うのは、こうした歴史的な立地も大きいのかもしれません。

難波宮
難波宮


 秀吉は、1583年(天正11年)、石山本願寺跡に大阪城(当時は大坂城)を作り始めます。完成まで15年かかり、その豪壮さから「錦城」と呼ばれました。1615年(元和元年)の大坂夏の陣で焼け落ち、1620年(元和6年)、徳川秀忠が新築に相当する大修築をおこないます。1629年(寛永6年)に再建されますが、1665年(寛文5年)に落雷で焼失。その後、火事による焼失・修復などを繰り返し、1868年(明治元年)、大火事でほぼすべてが焼失してしまいます。

大阪城炎上(プロジェクションマッピング)
大阪城炎上(プロジェクションマッピング)


 それ以降、広大な空き地が広がる城跡には、陸軍第4師団が司令部を置き、周囲には兵舎や砲兵工廠など軍事施設が並んでいました。そのため、大阪城跡は庶民には縁遠い場所でしたが、前述のとおり、「大大阪記念博覧会」では、パビリオン「豊公館」が建てられ、しかも電化がキーワードだけに、夜はライトアップまでされました。それを見た観客は、秀吉を “大阪のヒーロー” として強く意識することになります。

木造レンガ造りの兵舎
木造レンガ造りの兵舎


 秀吉人気を感じ取った関市長は、ここで大阪城の再建計画をぶち上げます。1928年(昭和3年)、昭和天皇即位の御大礼記念事業と銘打って、天守復興と公園化の計画を立ち上げたのです。趣意書には「大阪市の基礎を築きし豊太閤の偉業を顕彰」とありました。また、「豊公館」の人気を見た後藤新平が、常設化を提言したともいわれます。

 関市長が市民に寄付を呼びかけると、目標額150万円(現在の750億円ほど)がわずか半年で集まりました。特に貢献したのは、住友家当主・吉左衛門による25万円の寄付でしたが、庶民も率先して寄付しました。こうして1930年に着工、翌年完成することになります。

旧天守閣の石垣
旧天守閣の石垣


 大阪市から天守閣の設計を依頼されたのは、古川重春でした。一介の建築家ではありますが、桃山建築に関する知識は他の追随を許さなかったと言われます。

 しかし、大阪城にまつわる資料はほとんど存在していません。古川は、黒田家所蔵の「大坂夏の陣図屏風」を基に、設計図を書き上げます。

「大坂夏の陣図屏風」
「大坂夏の陣図屏風」(ウィキペディアより)


 1923年の関東大震災の影響もあり、大阪城は鉄筋コンクリート製で、当時最先端のエレベーターも導入されています。中身は最新の技術が使われていますが、一方で、天才肌の古川は外見の細部に尋常でないほどの情熱を注ぎ込みます。市の担当者とたびたび対立するのですが、特に揉めたのが上層屋根の設計でした。古川は横1尺に対して高さ7寸5分〜8分の勾配を主張しますが、市側は7寸の緩い傾斜を主張。大揉めに揉め、結局、7寸3分が採用されました。古川はこれを大失敗と決めつけ、もし7寸の緩い傾斜であったら、「見る影もなき拙作の汚名を永久に負わなければならなかった」(再建記録『錦城復興記』より)と強い口調で非難しています。怒りのあまり、古川は竣工式にも姿を見せませんでした。

大阪城・立てられ始めた鉄骨
立てられ始めた鉄骨


 実は、古川が参考にした「大坂夏の陣図屏風」では屋根や腰壁が黒っぽく描かれていますが、実際に完成した城は緑青色の屋根と白しっくいの壁が特徴で、はるかに白くなっています。つまり、本物の再現というより、古川が意匠を独自に作り上げ、理想的な桃山城郭を生み出した形です。

大阪城・鉄骨組み上げ中
鉄骨組み上げ中の大阪城


 さて、ここで一つ疑問なのが、前述のとおり、城跡は陸軍第4師団が司令部を置き、周辺には多数の兵舎や工場がありました。それなのに、一帯を見下ろすことになる天守閣の建造許可を、どうやって軍から取り付けたのか。

 実は、寄付で集まった150万円のうち、天守閣建設費は47万1000円、公園整備費は22万9000円の合計70万円でした。残りの80万円は、師団司令部の建て替えに充てられたのです。市民が次々に寄付し、司令部建設まですると言われるなかで、軍は拒否しにくかったのではないかと考えられます。

師団司令部(2001年まで博物館)
師団司令部(2001年まで博物館)


 こうして、1931年(昭和6年)11月7日、大阪城天守閣の竣工式が開かれました。街中が奉祝に沸き、装飾された市電(花電車)が登場しました。市民は連日、提灯行列を繰り出し、心斎橋と戎橋には天守閣を模したアーチが建てられ、商店街では大規模なセールがおこなわれたと伝えれらます。宝塚歌劇団では、記念歌劇『大阪城』を公演しています。

 しかし、戦況が悪化すると、軍は入場規制を強化し、1937年にカメラの持ち込み禁止、1942年には全館閉鎖となりました。空襲では焼けませんでしたが、終戦後は進駐軍に接収され、返還されたのは1948年のことでした。

完成直後の大阪城(1931年)
完成直後の大阪城(1931年)


 1959年、大阪城で大規模な学術調査がおこなわれました。本丸でのサウンデイング(地盤調査)とボーリング(試掘)により、地下約7.5メートルに豊臣時代の石垣が発見されたのです。同時に、初代天守の場所は今とは異なっていたことも判明しました。

 1960年、日本城郭協会が徳川幕府の京都大工頭だった中井家で図面調査したところ、詳細な本丸図が2枚確認されました。これは縦40cm、横30cmほどの薄い和紙に原図から写したもので、秀吉が築城したときに大工が描いた「指図(図面)」だと考えられています。そして、この資料を調査した建築史家の宮上茂隆氏が、1983年、20年をかけて大阪城本丸設計図を復元することに成功します。

大阪城が復元される前の天守閣跡
大阪城が復元される前の天守閣跡


 大林組の『季刊大林 No16』(1983年)では、この設計図を元にした大阪城の再建プロジェクトを掲載しています。
 それによると、現在の技術で秀吉の大阪城をゼロから作った場合、

【土木工事】560億円
土工事50億円/石積み工事480億円/付帯工事30億円

【建築工事】221億4200万円
天守閣40億3700万円/表向御殿53億6400万円/奥向御殿54億1200万円/
そのほか(門や櫓など)73億2900万円

 となりました。また、工期は、土木工事32カ月、建築工事59カ月、並行作業したとしても69カ月(5年9カ月)と想定されました。

大阪城完成を祝う花電車
大阪城完成を祝う花電車

 
 宮上氏により復元された大阪城は、地下2階、地上6階建てで、高さ33.48メートル。現存する大阪城は、1997年、「平成の大改修」として、大林組が外装をすべて剥ぎ取る大がかりな修繕をおこないました。キラキラと輝いた華美な城は、いまも大大阪時代の栄華を伝えているのです。

戦前の大阪城周辺には軍事施設ばかり
戦前の大阪城周辺には軍事施設ばかり(「大大阪明細地図」)


城の見方・消えた城
城の見方・防御篇
城の見方・意匠篇
熊本城・被災の歴史
江戸城・焼失の歴史
「現存12天守」完全制覇

制作:2024年4月21日


<おまけ>

 秀吉は、大坂城の建設が始まった3年後の1586年、京都に「聚楽第」の建設を始めています。当初は聚楽城と呼ばれましたが、のちに後陽成天皇が行幸したことで「聚楽第」と呼ばれるようになりました。総延長数十キロに及ぶ土塁(御土居)が建設され、周囲には大名屋敷も整備され、京都は広大な城塞都市となりました。聚楽第の姿は不明ですが、外観4層の白亜の天守閣があったのではないかと推測されています。
 
 聚楽第は甥の秀次により増築されますが、秀次切腹事件により、秀吉は8年ほどで聚楽第を徹底的に破壊することになります。

 秀吉の城としてもうひとつ有名なのが、1592年から造営が始まった伏見城です。破却された聚楽第からも建物が移築されていますが、戦闘用というより、秀吉が隠居するための城で、贅沢で華やかな桃山文化の象徴とされています。

「聚楽第」を囲んでいた御土居
「聚楽第」を囲んでいた御土居(土手)
 
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