挿絵画家が描いた「関東大震災」
臨時火葬場
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が起きました。
浅草では30分で14カ所から火が出たとされ、浅草区一帯が猛火に包まれました。
このとき、浅草寺周辺では、「観音様を焼くな」「浅草寺を焼いては浅草の名折れだ」との声があちこちから出て、地元民は必死の消火活動をおこない、無事、浅草寺は守られました。
しかし、あまりの猛火に、それ以外の地域は広範囲にわたって完全に焼失してしまいました。
挿絵画家の小島沖舟(こじまちゅうしゅう)は、地震の直後、被災地をめぐってイラストで記録を残しました。『震災記念画帖』より、そうしたイラストと記録文をいくつか再録しておきます(読みやすさを優先し、一部改変して引用しました)。
焼け残った浅草寺
【吉原の瓢箪池】
病院前の池は、2尋以上もある深い池である。それはまさかのときに人を救うための貯水池であったが、その目的にそわないで、今度は多くの人を殺してしまった。
ぐらぐらっと揺れる、同時に、立ちならんだ2階3階のだだっ広い家が、めきめきと恐ろしい音を立て、びしゃびしゃと将棋倒しに潰れた。京町あたりから数ヶ所、火は一時に燃え広がった。逃げ場を失った廓の人々は、雪崩を打って公園の広場に押し寄せて来た。そこでは、火に追われながら、廓外からも、流れるように裏門を潜って入ってきた。
幾千の避難民が渦をまいてどよめくなかに、飛火で病院がもうもうと火焔を吐いて燃え始めた。同時に、数回の旋風が火を煽った。
避難者は足音に驚く蛙のようにこの池へ飛び込んだ。その多くは可憐な遊女であった。瓢箪池(ひょうたんいけ)の名に背かず、一時は瓢箪のように浮んだが、水を(体に)入れては徳利のようにブクブクと底へ沈んでしまった。
吉原の瓢箪池
火勢が衰えて、東の空が白んできた。池のなかは折り重なった死体の山で水が見えなかった。しかも、その水は湯のように熱かった。
日を経るに従って、死体は腫れ出してきた。同時に腐乱し始めた。なんとも言えない、重苦しい悪臭が、付近の空気をどす黒く染めて、手拭でおおい隠した鼻の奥までも刺激した。この世からの「血の池地獄」、生きながらの「死の池地獄」、なんという悲惨なことであったろう。
今は池畔に観音様の石仏が、うず高く骨をおおった土の上に安置されて、手向けの花の束、回向の香の煙りが絶えることはない。
焼失した吉原大門
【被服廠跡】
本所が一面の火となったとき、山之内(秀一)相生署長は、空地3万余坪を有する被服廠跡のほかには、ほかに区民の生を託すところがないと信じた。彼は部下を督して被服廠へ被服廠へと、声をからしてそこに避難民を導き入れた。もうこれでよしという瞬間の彼の心を裏切って、猛火は四方八方よりそこを包囲してしまった。
3万幾千の生霊が、哀れにも千載の恨みをのみ、折り重なって黒焦げになって死んだ。彼は責任観念の刺激に耐えないで、天を仰ぎ、火のうちへ飛び込んで死んでしまった。
震災前、帝都の人口は250万と称せられていた。しかるに、今日(震災後4ヶ月)では152万5000に減じた。
郡部そのほかに避難した者は、元の古巣に帰りきたるであろう。しかし、被服廠の犠牲者3万3000幾人かは未来永劫に現実と関係を絶ってしまった。
両国橋を渡って、右と左に2ヶ所の回向院ができた。
前者は明暦3年の江戸市中大火災の全焼死者10万8000の冥魂追善のために幕府の建立したものである。第2の回向院である被服廠跡は、そもそもいかなる人の手により、いかなる形式の下に、これら惨死者の霊を永久に弔うことができるか。
納骨堂を中心に仏教58宗の読経場がある。それから一乗護国団や、キリスト教青年会や、築地本願寺や、日蓮宗太平会や、神道連合などが、各自のバラックに立ちこもって、読経やお説教に続いて、鐘やお題目のにぎやかな音が聞こえる。命日にはお賽錢が500円以上、普通の日でも50〜60円は下らないという。
こうして、帝都復興の光の陰に、新しく一名所が加わってきた。被服廠跡、ただそれだけでいい。説明の必要はあるまい。
死体を片付けた被服廠跡
【骨の山】
震災後にできた言葉である。それが犬か馬の骨なれば、工芸化学の力を借りて、なにかの用に立つだろうが、人間の骨の山では、ちょっと始末におえまい。しかも、それが生きながらの焦熱地獄で、惨の惨をきわめた人間の最後の遺物であると言うに至っては、とうていペンの先で形容ができかねる。
被服廠を第一とし、市内各所で焼却した惨死者の遺骨のうちで、どうしても引取人のない無縁仏が、5万7773と計上されて、今は被服廠のいわゆる納骨堂に収容されている。
人間に着物をかぶせるためにできた陸軍の被服廠跡が、人間を裸にしてその生命を奪い、その肉をあぶり、荼毘一片の煙と化さしめ、誰の骨ともわからぬいわゆる骨の山を築くに至った一大惨事は、おそらく今後幾千歳の末になるとも、人間史のページを飾る文字として再び現れることがないであろう。
骨の山
【墓場の町】
被服廠跡を中心として、本所・深川方面の焼跡一面に、いわゆる墓場の街が現出された。
焼け残った鉄柵のなかに、生前、主人の乗用したと思われる赤くサビついた自転車の残骸や、土で造った子供のおもちゃ人形や、内職用としてお神さんの使っていたミシン台の破片などが、一家全滅の焼跡に掻き集められて、その前へ空びんを立て、菊の花を挿し込み、土鍋のかけらに灰を盛り、線香を立てて菩提を弔う哀れな現象が、いたるところ行人の涙を絞らしめた。
ことに向島の堤防には、枯死した桜の枝に、残った着物の片袖がぶら下り、女の髪の毛らしいものが、あたりにおびただしく散乱しているかたわらに、惨死者をひとまとめにした墓標や卒塔婆が建てられ、みかんの空箱の供物の上には、心ばかり
の供物が置いてあるなど、心なき往来の人までも足を止めて念仏を唱えるに至らしめた。
焼跡もしくは避難の箇所にこうした追悼の表象が、帝都といわず震害地方のいたるところに現れていた。ことに横浜のあるところには、町内の惨死者の氏名を列挙して、街路のかたわらに立派な墓場ができていた。
墓場の町
【日本橋の高層ビル】
日本文化の振出し場所、全国各地に達する里程の起点、お江戸日本橋の繁華は昔も今も変わらない。
大厦高樓(=高層ビル)は軒を連ね、車馬絡繹(らくえき=往来が盛んな様子)織るが如く、その混雑・雑踏、名状すべからざるものがあった。しかるに、この繁栄は分時をまたないで、めちゃめちゃに粉砕されてしまった。
火は、はじめに本石町あたりから起こったかと見るまに四方に燃えひろがり、同時に京橋を超えて、西南風に煽られた。その火は銀座通りから火焰の流れを大通一面に吹きかけて、 火の大海原と化し去らしめた。
そのときにはもう三越も白木屋も焼け、三井、村井、森村そのほかの諸銀行・大商店も焼け、ことに丸善の惨状は目もあてられなかった。それから日本銀行は金庫のみを完全に助け、外廓の皮のみを残して灰燼に帰した。
一瞬前の繁華は、瞬後の焦土と変わり、眼を開きながら夢見る心地がしたという。
日本橋の高層ビル
●関東大震災の惨状
●関東大震災「日記」
●震災で「崩壊した東京」
●震災1年後の「復興しつつある東京」
●関東大震災「鳥瞰図」
●関東大震災からの復興
●関東大震災直前の東京空撮
●イラストで見る関東大震災・食料配給の流れ
●関東大震災被災者名簿「1万年保管」計画
●田山花袋『東京震災記』
制作:2023年8月21日
<おまけ>
小島沖舟は、被害の大きかった神奈川県も回っています。見渡す限りの焼け野原となった横浜では夜の風景を描いていますが、そこは明かりもなく真っ暗でした。電気が普及し始めたことで、逆に各家庭にろうそくなどの準備が減ったことがわかります。小島は真っ暗闇のなかで、沖に停泊する軍艦のサーチライトで写生したが、非常に困難だったと記録しています。
夜の横浜