知られざる関東大震災、その後
被災者名簿「1万年保管」計画
名簿の保存容器を前にした永田秀次郎
1923年(大正12年)9月1日、東京市長・永田秀次郎は、丸の内の東京市庁にいました。そろそろ会食のため、出かけようかという11時58分、非常に大きな地震が襲いかかりました。いわゆる関東大震災です。
強い揺れに驚いた永田ですが、当初はそれほどひどい地震だとは思わず、最初に心配したのは水道でした。3年前の地震で断水し、苦い経験をしていたからです。実際、庁内では柱時計は止まったものの、本棚は倒れておらず、また窓から見てもそれほど異常はありませんでした。
永田は「宮中にお見舞いに行くのがいい」と判断し、公用車を自宅に走らせ、フロックコートを持ってくるよう指示します。しかし、電信柱や家屋の倒壊で車は自宅にたどり着けず、そのまま引き返してきました。
「そんなにひどい地震なのか――」
このとき永田は、ようやく地震の被害に気づきはじめたのです。
被災後の浅草
市庁舎の外に出ると、快晴で焼け付くような日差しを受け、厳しい蒸し暑さでした。
近くの宮内省に向かうと、天皇は日光にいて、摂政宮(昭和天皇)は赤坂離宮で無事だとわかりました。御所はまったく問題ありませんでしたが、宮内省の建物は大きく壊れ、なかにいられない状況でした。
皇居を出ると、すでに多くの被災者が市役所前から皇居前に集まっていました。午後3時ごろには群衆を皇居前に誘導しましたが、午後7時になると、人が増えすぎたので、「山の手の方へ逃げろ」と誘導するようになりました。
皇居前に集まった被災者
夜になっても電気はつかず、ろうそくの手配も追いつかず、闇の中で混乱が広がります。水道設備はこわれませんでしたが、停電でポンプを動かすことができず、結局、断水したままです。翌朝には、市の倉庫も陸軍の糧秣廠も丸焼けになったと判明し、事態は深刻になっていきます。
山の手に移動した被災者は、明るくなると下町に戻り、家の様子を確認したり、家族を探したりしていました。そうしたなか、豊作であふれていた果物のナシがあちこちで売られ、人々のノドの渇きを癒やしました。一方で、被災民が集まる場所の衛生は悪化し、多くの人が蚊に悩まされました。
ナシやバナナを配布
本所には陸軍の被服廠跡があり、広大な空き地が広がっていました。震災直後、多くの避難民がここに逃げ込みましたが、火事と旋風で多くの人が命を落としました。永田は、この場所を、ようやく9月6日になって訪問できました。
《黒々と焦げた死体は累々として、ようやく頭部と胸部の区別がつくほどのものであって、もとより何人も見分けのつくものではない。仔細に見ていると、男らしい骸(むくろ)と女らしい骸の近傍には、多く小さな骸が横たわっている。
焼け方の少ない骸でも、衣服はすべて焼き尽くされ、頭髪はことごとく焦げて、手を伸ばし、足を広げて、うつ伏せや仰向けで、まったく足を踏み入れる余地もないまでにうち重なっている。そして、死臭がふんぷんとして、強烈に鼻の奥底までも差し込むような気がする。
死体の数は正確にはわからなかったが、50名の警察官が手分けをして頭部らしいものを数えた数が、3万7000余りに及んだのである》(『青嵐随筆』所収「震災雑詠」を改変して引用)
被災後の上野
ひどかったのは江東地区で、ここでは行方不明者が多く、一家全滅も多くありました。当時、「山の手の家は倒れないのが幸せ、下町の家は焼けないのが幸せ、江東の家は死なないのが幸せ」と言われたほどです。
なお、震災直後、被災地を回ってイラストで記録を残した挿絵画家の小島沖舟は、被服廠跡について《3万幾千の生霊が、哀れにも千載の恨みをのみ、折り重なって黒焦げになって死んだ》と書いたほどです(『震災記念画帖』)。
昭和天皇の帝都視察(左手の黒い服が永田)
こうした惨状を見て、永田は大きな決断をします。震災の被害者の名前を、私費で1万年にわたって保存しようと考えたのです。詳細は、永田の「一萬年」(『永田秀次郎選集』所収)に記録されています。
永田は、まず、東京美術学校(現・東京藝大)の校長だった正木直彦に相談しました。
正木は、金板・銅板・石材・陶器に彫刻する方法、漆器に書く方法、紙に書いて保存する方法などを提案しますが、問題は「周囲の状況」だと言います。
「乾燥していれば漆器はダメで、紙や陶器や石材などがよい。水中に置く場合は、石や土より、かえって漆器がよい場合がある。風雪に曝された場合は、石材は1000年くらいで風化するが、これを地中に埋めれば永久である。精巧な彫刻で保存するなら純金が最善だが、銅板に鍍金(メッキ)して地中に埋めれば、これも1万年くらいは保存されるだろう」
永田は正木の意見を参考に、次の2つの方法を選択しました。
(1)陶器に焼きつける
(2)文書として保存する
陶器は、古代の土器が完全に保存されていることからも、1万年は十分に保存されると考えられました。そこで、永田の郷里・淡路島の淡陶社で製造したタイルに、氏名を焼きつけることになりました。タイルは幅6寸、厚さ3分で、表と裏に75名ずつ計150名の氏名を書き、およそ400枚をコンクリートの地下室内に入れる計画です。製造は面倒ですが、方法はいたって簡単。タイルの四方には蓮花と唐草模様を押し出し加工することになりました。
一方、困難なのが紙の文書としての保存です。
法隆寺には世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼経」(奈良時代、8世紀中葉)が残されていますが、それでも1300年の歴史です。そもそも製紙が始まって3000年ほどなのです。それなのに、どうやって1万年も保存できるのか。
たとえば正倉院文書などでは、紺紙(藍で紺色に染色した和紙)に金泥で記したものもありますが、すでに上質の紺紙は入手できません。そこで、永田は印刷局に依頼し、最高の和紙を作ってもらいました。そこに書く文字はインクではダメで、やはり墨がよいとなりました。しかも、印刷用の墨汁では1万年の保証はできないとの技師の意見が出て「和墨」が採用されました。
被災者名簿
文字を記した文書を殺菌消毒し、これ十分な厚味のある「玻璃(ガラス)球」に収納し、完全密閉。この玻璃のなかは真空ではなく、窒素を充填しました。この玻璃球をさらに厚い鉛球の中に容れます。本当は純金か白金がいいとのことでしたが、値段が高くなるため鉛になりました。
この鉛球をアスファルトで包み、木炭を詰めた備前焼の二重瓶のなかに保存。この備前瓶を、外部を厚くアスファルトで包んだコンクリートの地下室内に設置することが決まりました。
なお、書き込んだ文字は、ロゼッタストーンに3種類の文字が書かれていたことを参考に、日本語、英語、エスペラントの3カ国語で書き込まれました。最終的に、紙は9寸(27cm)✕2尺3寸(70cm)となり、548枚にのぼりました。
バンドでくくられた被災者名簿
さて、収容容器を実際に作成した技術者の記録も残されています。容器の開発は、東京電気に委託され、研究者の八巻升次が専従となりました。
八巻は、専門家が決めた上記の構造を基本的には踏襲しつつ、独自の工夫をこらします。
いちばんの変更は、ガラス瓶の代わりに水晶(石英)を採用し、なかに窒素ではなくアルゴンガスを封入したことです。また、鉛で巻くのではなく、鉛の筒に入れ、それをカーボランダム(炭化ケイ素)の筒で保護することにしたのです。
名簿を直接容れる水晶瓶は、ブラジル産の精選結晶を《電気炉で溶融し、あらかじめ鉛筆よりやや細い棒状にし、酸水素炎で曲げては溶着し、曲げては溶着せしめること、あたかも竹ザルを作るときのよう》(『科学知識』昭和5年9月号)。大きさは直径4寸5分(13.6cm)、長さ1尺3寸(39cm)の円筒で、頸部は封印するときに紙に影響しないよう、直径1寸7分(5.2cm)、長さ1寸2分(3.6cm)となりました。
製造された水晶瓶
名簿は、この水晶瓶4つに入れ込まれました。
水晶瓶のなかには、腐食しにくい3本のモネルメタル(ニッケル、銅、少量の鉄の合金)製のバンド腐食しにくい名簿を瓶内で保持。このバンドには、殺菌した黒と白の絹紐を巻いて、慶弔の意を表しました。
名簿を納めた瓶のなかの隙間には石綿を詰め、瓶の口を水晶で作った蓋で溶着。その後、蓋の中央にある細い管から空気を抜き、真空にしました。そして、アルゴンガスを封入したのです。この水晶瓶を石綿の紐で幾重にも巻き、これを鉛の円筒に入れ、溶接密封。さらに、硬度が高いカーボランダム製の円筒に入れ、保護するかたちです。
カーボランダムは、ダイヤモンドに次いで硬いともいわれ、花崗岩やレンガよりも研磨、高熱、圧縮、張力に強いことから採用されました。
鉛の筒に保存された名簿
こうして、名簿は「大正十二年九月関東大震災殃死者名簿」として、高野山に保存されました。高野山・奥の院の碑文によれば、名簿には日本人5万4500人、外国人200人の名前が書かれたと記録されています。
八巻氏は、1万年保存の見通しについて、技術的には、人間が故意に発掘しない限り、1万年の保存は可能としています。しかし、技術以外に重要なことは、《今後1万年の間に生存する人間の心掛け》だとしています。
《人間の利欲と名誉と好奇心とに目指されたら、いかなる保護装置も何にもならない。鉛円筒の代わりに純金製円筒でも使ったなら、科学的には理想的であろうが、(中略)高野の山奥にそんなものを埋めたなら、1万年はおろか100年さえむつかしかろう》
人間の欲こそが、最大の難関だと予期していたのでした。
高野山に届けられた名簿
●関東大震災の惨状
●関東大震災「日記」
●震災で「崩壊した東京」
●震災1年後の「復興しつつある東京」
●関東大震災「鳥瞰図」
●関東大震災からの復興
●関東大震災直前の東京空撮
●イラストで見る関東大震災・食料配給の流れ
●イラストで見る関東大震災(小島沖舟『震災記念画帖』)
●田山花袋『東京震災記』
制作:2023年8月21日
<おまけ>
この名簿は、長らく忘れられていましたが、2013年から東京芸大の坂口英伸氏により調査がおこなわれています。報道によると、タイルは紙にくるまれて平積みにされていたそうです。一方、紙の保管場所とみられる石棺には、厳重に封がされていたため、調査はそこでストップ。その封印を開ければ、「せっかくの1万年計画を妨げることになりかねない」というのが、その理由です。