江戸・東京「鳥瞰図」

深川洲崎十万坪
深川洲崎十万坪(歌川広重『名所江戸百景』/ウィキペディア)



 1968年に開業した霞が関ビルは、日本初の超高層ビルです。当時、周囲にビルは少なく、360度にわたって眺望が開けていたため、宣伝パンフでも「パノラマ」を売りにしていました。

 パンフには、眺望写真に加え、1840年(天保11年)の「江戸鳥瞰図」も掲載されています。当時はもちろん写真がないので、これは2代目歌川国盛(別名・一宝齋国盛)が版画で描いたものです。

 当時の江戸城と城下町、そして江戸湾に注ぐ隅田川の賑わいが美しく描かれています。奥にある富士山が、エリアの広大さを伝えます。


江戸鳥瞰図
江戸鳥瞰図



 実はこの画像、北尾政美(別名・鍬形蕙斎、鍬形紹真)の「江戸一覧図」の構図パクリですが、当時の庶民にとっては、驚愕のデザインでした。

「江戸一覧図」は、説明書きにはこうありました。

《蕙斎先生あらたに工夫して、お江戸の名所旧跡の繁華を一眼に見渡せる一奇図をあらわされたり。まことにその地その地の遊行の佳興を催すゆえに、お懸物(かかりもの)あるいは扁額(がく)などに表装し、またはお土産などお慰みにもなれかしと、諸君の展覧に備えたまうには古今奇絶の妙図なり》(『浮世絵之研究9/10号』1924年)

 あっと驚く絵柄なので、飾ったりお土産にしたりすれば、間違いなく好評だろう、というわけです。

 飛行機がない時代から、鳥のように上空から町を眺めたい、という願望は強くありました。しかし、遠近法も未熟な時代、うまく表現するのは難しかったのです。ちなみにこちらは、1830年代に刊行された『江戸名所図会』の鳥瞰図です。

江戸名所図会
江戸名所図会


 
 ついでにこちらは、初代広重が描いた「八ツ見橋の図」です。八ツ見橋は、東京駅八重洲口のそばに架かる「一石橋」のことです。

初代広重「八ツ見橋の図」
初代広重「八ツ見橋の図」(『狂歌江都名所図会』1856年)



 そんなわけで、今回は江戸と東京の鳥瞰図の歴史です。

 江戸時代から鳥瞰図的なものは数多くありますが、たとえば下図は致道博物館(鶴岡市)所蔵の「江戸から長崎まで道中図」です。道中のガイドなので、すべてが等価に描かれています。

江戸から長崎まで道中図
「江戸から長崎まで道中図」


 こうした道中図が、その後、名所旧跡を強調した「名所案内図」に大変化をとげることになります。

 明治・大正・昭和戦前に、どのような東京鳥瞰図があったのか、「東京・江戸の鳥瞰図の世界」(『地図情報121号』所収)でまとめられています。

●千葉恒次郎「東京市街全図」1902年=明治35年
●雲乗「東京鳥瞰図」1907年
●石川真琴「大東京鳥瞰図」1921年
●吉田初三郎「東京大絵図」1929年(『少年倶楽部』16巻11号付録)
●薫仙「大東京之鳥観図」1932年(『国民新聞』付録)

 というわけで、これらの作品を見てみることにします。

 明治時代、おそらく最初に鳥瞰図を書いた千葉恒次郎がどんな人物だったのか詳細は不明ですが、「東京市街全図」は、日本赤十字社25年紀祝典で配られた記念品です。ものすごい細かくて、老眼の人間にはほとんど読めない小ささです。

「東京市街全図」
「東京市街全図」赤坂御所から皇居、靖国神社(1902年)

「東京市街全図」
「東京市街全図」上野から浅草(1902年)



 この2図であわせて3つも「パノラマ館」がありますが、もちろん別の施設です。また、下図パノラマ館の近くには浅草12階と呼ばれた「凌雲閣」が見えます。

 石川真琴は、旧制仙台一中卒業後、「白馬会」で西洋絵画を学びました。教育掛図を描きながら、鳥瞰図にも挑戦。東京市による鳥瞰図制作に参画し、後藤新平市長から絶賛されました。それが下の「大東京鳥瞰図」で、前出『地図情報121号』付録より画像を転載しておきます。

「大東京鳥瞰図」
「大東京鳥瞰図」上野から浅草(1921年)



 石川真琴は、ほかにも数多くの作品を作っています。以下は、1929年に日本旅行協会から刊行された「大東京鳥瞰絵図」(畳紙は「大東京鳥瞰地図」)ものです。

「大東京鳥瞰図」
「大東京鳥瞰絵図」東京駅(1929年)

「大東京鳥瞰図」
「大東京鳥瞰絵図」上野から浅草(1929年)


 凌雲閣は、関東大震災で倒壊したため、この図には描いてありません。

 石川真琴よりはるかに有名な業界の第一人者が、吉田初三郎です。初三郎は1884年(明治17年)に京都で生まれ、京都三越の友禅染図案部で働いていました。21歳のとき日露戦争が起こり、輜重兵(輸送兵)として徴兵されます。

 その後、一人で東京に来て、浅草の絵看板などを手がけますが、当時の観光ブームに乗って、全国各地の鳥瞰図を1600点以上も制作することになります。広大なエリアを、富士山を入れ込んで描く鳥瞰図が高い人気を呼び、「大正の広重」などと呼ばれました。

 初三郎の名を一躍広めたのが、鉄道省に依頼された「鉄道旅行案内」です。全国の名所旧跡を挿絵と鳥瞰図で見せました。基点の東京は皇室専用駅がある原宿と明治神宮になっています。

「鉄道旅行案内」
「鉄道旅行案内」



 初三郎はもともと洋画家・鹿子木孟郎の門下生でしたが、1913年に描いた路線図「京阪電車御案内」が、当時の皇太子(後の昭和天皇)から「きれいでわかりやすい」と褒められ、鳥瞰図絵師の道に進みます。

『吉田初三郎のパノラマ地図』(平凡社)によれば、東京全体を描いた鳥瞰図は1929年の「東京大絵図」が唯一だそうです。すごいのが、樺太、北海道から朝鮮半島まで含まれている点です。


「東京大絵図」
「東京大絵図」樺太〜北海道〜水戸〜浅草(1929年)

「東京大絵図」
「東京大絵図」富士山〜大阪〜朝鮮半島、台湾

 ただ、東京駅や皇居は比較的ていねいに描かれているものの、あとはけっこう手を抜いている感じも否めません。

吉田初三郎「東京大絵図」
「東京大絵図」東京駅から上野

吉田初三郎「東京大絵図」
「東京大絵図」皇居から高輪



 色がモノクロなのも残念です。この絵図は『少年倶楽部』の付録で、表には日本地図がカラー印刷されていて、これはその裏面。せっかくの鳥瞰図を裏にするなよと言いたいですが、まぁ、いまさら文句を言ってもしょうがないですね。

吉田初三郎「東京大絵図」
「東京大絵図」全体図



 なお、『地図情報121号』には載っていませんが、ほかに清水吉康「東京附近パノラマ地図」にも東京の鳥瞰図が掲載されています。

「東京附近パノラマ地図」
「東京附近パノラマ地図」(1922年)


大東京市制記念「大東京之鳥観図」(1932年『国民新聞』付録)
大東京市制記念「大東京之鳥観図」
(1932年『国民新聞』付録、江戸東京博物館)



 吉田初三郎も石川真琴も、1923年に関東大震災が起きると震災鳥瞰図を残しました。

 そして戦争が始まると、鳥瞰図はスパイ防止の観点から大幅に制限されることになります。そのため、吉田初三郎は絵はがき職人に転じますが、その一方、軍用の鳥瞰図や国威高揚の絵を残しています。戦後は、原爆の鳥瞰図「広島原爆8連図」などを描いて糊口をしのぐのでした。


●鳥瞰図の世界総論
●初三郎『日本八景名所図会』
『関東大震災鳥瞰図』の世界

制作:2021年10月11日


<おまけ>

『地図情報121号』によると、戦後の主な東京鳥瞰図は以下のとおりです。

●峯暁雲(峯庫治)「東京観光大鳥瞰図」1951年頃
●中央印刷工業「一目でわかる大東京立体地図」1958年
●高田啓一郎「首都大東京」1965年頃
●藤本一美「大東京パノラマ鳥瞰図」1983年
●黒澤達矢「ジオラマ東京」2002年

 たとえば「一目でわかる大東京立体地図」を見てみると、東京にNHK、日テレ、TBS、東京タワーと4つの電波塔が立っていることがわかります。地図は、常に時代を映す鏡なのです。

「一目でわかる大東京立体地」
「一目でわかる大東京立体地」
 
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