隧道入門
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「トンネル」の世界
日本初の有料隧道に行く
巌井寺隧道(1895年)
旧東海道を下り、安倍川を渡ると、まもなく丸子(まりこ)宿に到着します。この宿には、400年前から営業しているとろろ汁の名店「丁子屋」があります。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、にわか雨が降るなか、弥次さん喜多さんがこの店にやってきました。しかし、夫婦ゲンカのせいで、2人は名物を食べられず、空腹のまま、次の宿・岡部宿に到着します。
店を出て、岡部に向かう様子は、原文だとこんな感じで書かれています。
《それより宇津の山にさしかかりたるに、雨は次第に篠を乱し、蔦のほそ道心ぼそくも、杖をちからに(名物の)十団子の茶屋ちかくなりて、弥次郎おもはず、さかみちにすべりころびければ……》
宇津の山は急峻で、弥次さんは思わず坂道を滑り落ちてしまうのです。
現在は厄除けのお守りとなった「十団子」
宇津ノ谷峠の道は「蔦の細道」といわれ、東海道の難所として知られました。平安時代には在原業平が歩き(『伊勢物語』)、1590年には豊臣秀吉もここを通って小田原の北条氏を攻めました。松尾芭蕉も、先の丁字屋で「梅若菜まりこの宿のとろろ汁」と詠んでいます。
宇津谷峠隧道イメージ図
(国立公文書館「静岡県下宇津谷峠隧道鑚開ノ儀ニ付伺」1874年)
宇津ノ谷には、江戸時代、トンネルはありません。しかし、明治時代になって、初めてここにトンネルが完成します。
明治政府は、1871年(明治4年)、太政官布告第648号で、道路や橋の建設・整備に民間が関わることを認め、その財源として料金の徴収を認めました。民間による有料道路制度によって、日本中の道路を整備することにしたのです。
この峠にトンネルが通るのは、1876年(明治9年)のことです。地元で作られた7人の「結社」が工事費用の大半を負担し、コストのかからない「く」の字型に曲がったトンネルを作り、通行料を徴収しました。料金は当初大人2厘、子供1厘で、これをもって「日本初の有料トンネル」と称されています。
しかし、20年後にトンネル火災が起こり、1904年、赤レンガのトンネルに変わりました。明治に作られたこのトンネルは、国の登録有形文化財となっています。
全長203mの明治トンネル
宇津ノ谷は、トンネルマニアの聖地とも言われます。
どうしてかというと、この場所には明治トンネル以外に、大正トンネル、昭和トンネル、平成トンネルがそれぞれ存在しているからです。
明治トンネルに並行して、旧国道1号線に作られたのが、かまぼこ型の大正トンネルです。自動車の到来に合わせて作られたもので、大正時代に工事が始まり、昭和5年に完成しました。そして、国道1号の上下線に「昭和トンネル」(昭和34年完成)と「平成トンネル」(平成7年完成)があります。
平成/昭和トンネル
トンネルの歴史は古く、世界最古のトンネルは、紀元前6世紀ころから?、ペルシアやイランなどで作られてきた灌漑用水路カナートだと言われます。ある程度文明が発達すると、人類はノミやハンマーでひたすら掘削していきました。ノミで歯が立たない硬い岩は、トンネルの先端(切羽=きりは)を火で熱し、水をかけて急冷させることで、岩盤を崩しました。
日本における最古のトンネルの記録は、『日本書紀』景行天皇の項に登場するものだと思われます。
現在の大分県で、石窟に住んでいる「土蜘蛛」を殺すため、《海石榴(つばき)の枝で木槌を作り、山を穿ち草を払って襲撃した》との記録がトンネルではないかと言われています。
江戸時代のトンネルとして著名なのが、こちらも大分県の「青の洞門」です。禅海和尚が手彫りしたもので、1735年から1764年までかかって342m(うちトンネルは144m)の通路が作られました。1750年以降は、通行料を徴収したため、「日本初の有料道路」とも言われます。
青の洞門
江戸時代、トンネルといえば箱根用水などの水路トンネルが多かったのですが、明治時代になっても、琵琶湖疏水など数多くの水路トンネルが作られました。
琵琶湖疏水
しかし、明治時代は鉄道用のトンネルが大規模に作られていきます。
大阪〜神戸間に鉄道を通す際、天井川だった芦屋川や石屋川は下にトンネルを通すことになりました。1874年に運用が始まった「石屋川トンネル」が、日本初の鉄道トンネルです。
お雇い外国人の指揮下、いったん水流を変え、川底を掘ってレンガを積み、トンネルを組んだ後、再び川を埋め戻す「開削工法」がとられています。
石屋川トンネル(『鉄道80年のあゆみ』)
日本人だけで掘削された最初の山岳トンネルが、1880年に完成した「逢坂山トンネル」。当初、人力に頼っていたトンネルの掘削ですが、1866年、ノーベルが発明したダイナマイトにより、トンネル掘削の効率が大幅にアップしていきます。
さらに圧縮空気を用いた掘削機がイタリアで発明され、1903年に完成した中央線の「笹子トンネル」では、蒸気機関式の削岩機が使用されました。なお、4656メートルの笹子トンネルは、長く日本最長のトンネルとして知られました。
トンネル掘削で、もっとも画期的な技術が、シールド工法です。圧縮空気を送りながら、鉄製の巨大円筒で掘り進みます。フランス人技術者マーク・ブルネルが、フナクイムシが木材にあけた穴を見て発明しました。さらにイギリス人技術者ジェームズ・グレートヘッドが円形シールドを開発。これらの技術がロンドン・テムズ川のトンネル工事に使われました。
海ほたるに展示されたシールドマシン
日本で最初のシールド工法は、1917年に着工した羽越本線・折渡トンネル工事(秋田県)で採用されました。このときのシールド機は、鉄道省総裁官房研究所が設計、横河橋梁製作所が製造しています。結果的にあまり出番がなかったのですが、この技術が大きく生かされたのが、東海道線の丹那トンネルと、山陽本線の関門海峡トンネルです。
折渡トンネル
かつて東海道線は、国府津〜沼津間を御殿場経由で迂回していました。熱海は、国府津から延長された終着駅です。しかし、御殿場ルートは急勾配が続き、鉄道の輸送量アップには対応できません。そこで、熱海の先で大トンネルを作り、沼津につなげることになりました。
掘削直前の丹那トンネル(『写真週報242号』)
この丹那トンネルは、1918年(大正7年)に着工し、7年後の完成を目指しますが、実際の完成は16年後の1934年(昭和9年)となる難工事でした。工事が難しかった理由は、地盤の悪さ、厄介な粘土、そして大量の地下水です。
1921年4月1日、熱海側の坑口で大崩落が起き、16人が生き埋めになりました。このとき反対の沼津側では、土砂をトロッコに送る漏斗に石が引っかかり、作業員が石を取り除く作業をしていて、17人が助かりました。この石は「救命石」と呼ばれました。
また、1930年11月26日には、マグニチュード7の北伊豆地震が起き、断層が2.5mほどずれ、坑道が途中で閉じる前代未聞の事故も起きました。
救命石(丹那神社)
熱海といえば温泉ですが、この熱で、岩石が「温泉余土」という粘土に変質していました。粘土は工事中に徐々に膨れ上がり、鉄製の柱が曲がるほどの土圧でした。さらに熱いヘドロとなって噴き出してくることもあり、こちらも苦労が尽きません。
そして最も苦労したのが大量の水です。
「それ(=大量の水)が300封度(ポンド)という力を持っていた。消防ポンプのホースから出る水の力は2、30封度位」(『丹那トンネルの話』より)とあり、あまりに強い水圧のせいで、ボーリングの棒も勢いよく飛び出すような状態でした。
1924年には、沼津側で大崩落が起き、流れ込んだ泥水で16人が溺死しました。
丹那トンネルで吹き出た水
水が噴出する断層を掘削するには、断層面へボーリング機械で10mほどの穴をあけ、そこからセメント粉末を圧搾空気で吹き入れ、岩質をセメント化させるしかありません。しかし、この注入はあまり効果はなく、工事は停滞したままです。
工事が成功したのは、本坑に先行して掘削した水抜き坑のおかげです。水抜きトンネルの総延長は1万4500mとなり、トンネル自体(7800m)の約2倍に達しました。水抜きトンネルの効果はなかなか出ませんでしたが、数年後の1926年(昭和元年)頃にはほとんど湧水がなくなりました。ようやく、トンネルにレンガを巻き、工事が完成します。わずか25mほどの断層を突破するに、実に4年8カ月かかりました。
レンガ部分が見える丹那トンネル入口
1940年、政府が「弾丸列車」の建設を決定します。1941年、新丹那トンネルの掘削工事が始まりますが、戦況悪化で工事はすべて凍結。ただし、このとき途中まで進んだ工事によって、1964年の新幹線開通が実現するのです。これが、現在の新丹那トンネルです。
新丹那トンネル
もうひとつ、戦前におこなわれた大きなトンネル工事が、世界初の海底鉄道トンネル「関門トンネル」(約3.6km)です。明治時代、後藤新平・鉄道院総裁が橋とトンネルの2案の調査を指示、1918年にトンネル案の採用が決定しますが、その後、関東大震災の復旧(1923年)と、経済恐慌(1930)で2度、計画が中断します。
関門トンネルの工事
関門トンネル開通の瞬間
1936年、起工式がおこなわれ、1942年に第1線貫通。1944年に第2線が開通しました。
こちらも大量の海水や軟弱地盤、坑内の高温に悩まされましたが、圧縮空気を送り、シールド工法により完成しました。使われたシールドは、重さ170トン、外径7.2メートル、長さ5.9メートルでした。
関門トンネルで使われたシールド機
1953年、集中豪雨でトンネルが冠水。翌年、トンネル両側に防水扉が設置されました。トンネル内には、いまも1日数百トンの水が染み出しているため、門司と下関の両側からポンプでくみ上げています。
関門トンネル開通式(鼓笛隊が演奏)
さて、冒頭で触れた宇津ノ谷トンネルですが、上りは矢板工法、下りはNATM工法で作られています。
トンネルの工法にはいくつかありますが、まずは石屋川トンネルで使われた開削工法。次にシールド工法。海底トンネルでは、地上であらかじめトンネルとなるケーソン(潜函)を作成して海中に沈める潜函工法/沈埋(ちんまい)工法などがあります。潜函は底がない箱、沈埋は底がある箱のことです。
関門トンネルで使われた潜函
そして、最後が山岳工法と総称されるもので、これに矢板工法とNATM工法が含まれます。
矢板工法が従来のもので、木(または鋼)の矢板を連続して打ち込み、それを支保工(アーチ状の支え)で支え、内壁をコンクリートなどで固める方法。これは、鉱山で使われた「山留め」の技術が進化したものです。
NATM工法だと、ロックボルトを打ち込み、コンクリートを吹き付けます。
ハリネズミのようなNATM工法
よくわからないと思うので、新東名高速道路「谷ヶ山トンネル」の工事現場に行ってみました。このトンネルは、上下線とも2700mを超える長大トンネルですが、NATM工法が採用されています。
大量の空気を送り込み…
ロックボルトを岩盤に打ち込み、防水シートを貼り(防水工)
セントルで支えながらコンクリで覆う(覆工)
コンクリート吹付機
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関門トンネルの工事
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青函トンネルと大間鉄道
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東海道新幹線(広軌新幹線)の誕生
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水害・洪水を防ぐ土木工事の歴史
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日本のダム行政史
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那須疎水・幻の大運河計画
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観光都市「京都」の誕生
制作:2019年8月23日
<おまけ>
現在、日本にはトンネルのようなダムが存在しています。
鹿児島県の喜界島は、琉球石灰岩からなる島で、大量に降る雨もすべて地下水となって流れ出てしまいます。そこで、農水省は2003年に地下ダムを作りました。地下水の下流の地中に止水壁を設け、水を溜めるのです。
喜界島では、蛹が金色になるオオゴマダラの生息地があったため、地表を掘削できず、トンネルを掘り、そのトンネルから止水壁の工事をおこないました。
喜界島地下ダム
トンネルの向こうは水
<おまけ2>
戦時中、「弾丸列車」計画による新丹那トンネルの工事が始まると、掘削担当の国鉄関係者が函南駅のそばに数多く移住しました。それが「函南村国有鉄道官有無番地」で、その後、新幹線地区と称されるようになりました。現在も、新幹線公民館という建物が建っています。
新幹線公民館