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工作機械(12点)

 日本の機械化は繊維(軽工業)から始まりました。そこから重工業が発展していく過程で、機械化が進みます。しかし、そのためには機械を作る機械が必要になってきます。その代表的なのものが旋盤という機械で、要は穴を開けたり溝を彫ったりするのに使われます。

 もちろん軍需産業でも大いに活躍しました。兵器を作るのではなく、兵器を作る機械を作るのに使われたわけです。

 日本が戦争に負けたときに、こうした工作機械類は海外への賠償指定品になりました。要はお金がないので、物品で支払うことになったのです。ところがすぐに朝鮮戦争が始まったので、米軍が賠償指定の解除に踏み切ります。そして日本の工場で再稼働し、さらにその後には払い下げで、工業高校の実習で使われるようになったのです。

 なお、以下の機械はすべて完動品でした。

●フットプレス(キックプレス)
 大阪府立藤井寺工業高校で戦前に使われていたプレス機。踏み固めたり撃ち抜いたりする際に使用。(1989年寄贈)

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●戦前〜戦後の工作機械一式 その1

 堺市立工業高校で使われていた工作機械。1940年〜50年代に制作されたもので、ボール盤、フライス盤、平削り盤、縦削り盤、形削り盤、研削盤、中ぐり盤の7点。ボール盤のみアメリカ製で、残りは国産。(1985年寄贈)

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ラディアル・ボール盤


 当時の工場経営者にとって垂涎の的だった米国シンシナティの工作機械。日本はこうした機械を輸入して、オークマや新潟鉄工が物まねして国産機械を製造してきました。分解し、軽量化やスピード化といった改良版を安く出すことで、売り上げを伸ばしてきたわけです。日本工業大学に移管されました。

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フライス盤(円形刃物=フライスによって切削)

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平削り盤

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縦削り盤

katakezuri
形削り盤

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松下金属製の研磨板

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水平中ぐり盤(孔や円筒の内部を切削)


●戦前〜戦後の工作機械一式 その2
 大阪府立淀川工業高校で使われていたグリソン社製の歯切り盤。回転軸を90度曲げるときに使う傘歯車をつくる機械で、溝を切る位置の関係で機構的に珍しい動きをする。1953年に民家2軒分の巨費(83万円)をかけて輸入したもの。高価すぎて、先生と実験助手しか使えず、生徒はあまり使わせてもらえなかったとか。(1994年寄贈)

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カサ歯車用の歯切り盤

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同じく淀川工業高校から提供された代表的な旋盤

 写真は「OKK-RAMO旋盤T-37」と呼ばれるもので、大阪機工株式会社が製作。1961年にフランスのラモ社から技術を導入し、製品化しました。本機は精密な定寸装置や刃のクイックチェンジ機構が備わっていて、高い評価を得ていました。



●大阪砲兵工廠で使われていた旋盤とボール盤

 一帯で6万人の職人が働いていた巨大な兵器工場「大阪砲兵工廠」には工作機械が何千台と設置されていました。東京の砲兵工廠(現在の後楽園球場)では小銃や機関銃などを作っていましたが、大阪では大砲などを作っていました。当然、何度も空襲にあいますが、焼けなかったものも多数あったのです。これはドイツから輸入したもの。

 戦後は賠償指定を受け、外国へ行く運命でしたが、幸いなことに日本に残り、大阪車輌工業株式会社で使われました。(1996年寄贈)

 余談ですが、東京の砲兵工廠は後に小倉へ重点が移動したため、小倉が原爆の最優先目標地点にされていました。ところが、小倉まで行ったものの天気が悪かったため、爆撃機は海軍の造船基地があった長崎に行ったとされています。

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1945年まで大阪砲兵工廠で使われていたカウンター・バランス付きボール盤
(ボール盤は本来立てて使うものですが、入らないので寝かせて保存していました)

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こちらも砲兵工廠で使われた旋盤

●このほか、家内工業において使われていた細かい金属加工機器多数

・昭和30年代まで使用されていた手製の用具約450点(1984年、個人寄贈)
・昭和57年頃まで金属製の笛などを制作していた国産唯一のメーカー
・仲津製作所で使用されていた金属加工機器約200点(1988年寄贈)

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仲津製作所提供の穴あけ機