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逓信総合博物館

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逓信総合博物館


 郵便博物館(逓信博物館)から発展した逓信総合博物館(通称ていぱーく)は、1964年12月、東京・大手町にオープンしました。

「ていぱーく」の「てい」は、逓信総合博物館の「逓」で、「ぱーく」は博物館の「博」と「パーク(公園)」をかけています。

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郵便博物館の看板

 もともとは郵政省、日本電信電話公社(電電公社)、国際電信電話株式会社(KDD)、日本放送協会(NHK)による共同運営で、郵便・郵貯・簡保の「郵政資料館」、電信・電話の「NTT情報通信館」、ラジオやテレビの「NHK放送館」からなっていましたが、後にKDDIとNHKが運営から離脱し、郵便と通信の博物館となりました。

 逓信総合博物館は、大手町の再開発により、2013年8月31日をもって閉館しました。郵便部分については、2014年3月に東京スカイツリータウンに移転、郵政博物館となりました。

 そんなわけで、展示物を再現しておきます。

<電信>

●エンボッシングモールス電信機

 嘉永7年(1854)にアメリカのペリーが徳川幕府に献上したもので、日本渡来第1号電信機。針を溝のついた紙テープに押しつけ、長短の筋を付ける方式

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●ブレゲ指字電信機

 明治2年から明治8年頃まで使われた、日本初の文字送信機。フランス人のブレゲが考案

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●携帯用写真電送機(手前)、テープ式の国産印刷電信機(奥)

 NECの丹羽保次郎が発明したNE式写真電送機。昭和3年(1928年)、京都で行われた昭和天皇の大礼の様子を東京日日新聞が電送したのが最初。

 印刷電信機はモールス信号に依らず、直接文字で受信できた。1925年から1951年頃まで使われた。写真は1934年の国産機

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<電話>

●ベル電話機の原型

 電磁石と振動板を組み合わせたベル電話機の原型。送話器と受話器は同じ。真鍮の模型は、初代工務局長の稲田三之助がアメリカから寄贈されたもの

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●国産第1号電話機

 明治10年(1877)年に輸入されたベル電話機を元に模造した国産1号機。同型機が明治16年までに41個制作された。磁石とコイルと振動板を使うだけで電池は使用しなかったので、音声は微弱で、あまり使い物にならなかった。右が送話器、左が受話器

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●ガワーベル電話機


 明治20年(1887)、イギリスから輸入された電話機をもとに日本で製造。東京と熱海間でテストして好結果を得たので、創業時の電話交換業務に使用された。イギリス人のガワーが発明した送話器と、ベルの受話器とを組み合わせたので「ガワーベル電話機」と呼ばれた。左の引き札(チラシ)はこの電話機の使用図

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●創生期の電話1
 デルビル磁石式(左2台が甲号、右2台が乙号)


 明治30年(1897)、初の卓上形電話機として登場したデルビル磁石式甲号・乙号電話機。送話感度をよくするため、ガワーベル電話機の送話器に使われた炭素棒を炭素粒に代えるなど工夫が。ハンドルを回して磁石発電機から交換手に信号を送るので「磁石式」と呼ばれ、主に市内用として使用された

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●創生期の電話2
 ソリッドバック磁石式(左)とグースネック共電式電話機(右)


左:明治32年(1899)に登場した長距離通話用。

 構造はデルビル形と同じだが、ソリッドバック送話器は感度が高く、雑音が少なかった

右:明治36年(1903)、京都で初めて導入されたグースネック共電式電話機。

 交換局の電池を加入者が共同で使う「共同電池式」から命名。電話機に発電機と電池がいらないので、故障が少なく、小型化された。送話器の形が「がちょうの首」に似ているためグースネックと命名

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●磁石式公衆電話機(自働電話)

 硬貨を投入すると通話ができる公衆電話。明治33年(1900年)に上野駅と新橋駅に登場。それまでは、電話所という窓口で人の手を経て通話していた。この自働電話が出現してから、繁華街などに電話ボックスが増加した。奥はグースネック共電式電話機

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 下の写真は吾妻橋わきの電話ボックス。

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●電話ボックスの歴史


 前列奥から1954年、1927年、1900年(日本初の電話ボックス)
 後列奥から1969年、1947年、1907年頃(明治末期)

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<電話交換機>

●磁石式単式交換機

 日本の電話交換開始時に使用された交換機。交換手の手操作で2つの電話機を接続する最も基本的な形。電話交換の開始当時はベルギー製のものが使用されたが、明治26年から国産化が開始

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●手動交換機


 1979年、利島での使用を最後に引退した手動交換機

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<郵便ポスト>

●郵便ポストの歴史1


 明治4年(1871)、日本初のポスト「書状集箱」「集信箱」が誕生。書状集め箱は、東京12カ所、京都5カ所、大阪8カ所、3都市を結ぶ東海道の宿場62カ所に設置された。中央が東京、京都、大阪に設置された都市用で、郵便の利用方法や料金が書かれた紙が添付されている。右が東海道筋用。

 左は、明治5年3月に東京府内往復郵便が開始されたときに設置された角柱型「黒ポスト」

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●郵便ポストの歴史2

 郵便ポストは大きく分けて「柱箱形」と「掛箱形」があった。掛箱形は、明治4年から郵便取扱所が開設されると設置されていく。明治41年、柱箱形のポストが正式に鉄製赤色に制定され、掛箱も木製から鉄製赤色に変わった。

 左から郵便差出箱2号(1951)、鉄製郵便掛箱(1931)、航空郵便専用掛箱(1929)、春慶塗掛箱(1888)、草色ペンキ塗掛箱(1876)、白木製掛箱(1872)

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●郵便ポストの歴史3

 左から
・戦時中に使われたコンクリート製「代用ポスト」(1938〜)
・ストニー製「代用ポスト」(1939〜)
・差出口が大きい「丸形庇付ポスト」(1934〜)
・航空郵便制度が施行され設置された「航空郵便専用ポスト」(1929〜)
・故障の多かった明治41年の回転式ポストから回転板をはずし、雨よけの庇を付けた「丸形庇付ポスト」(1912〜)
・明治41年に正式に制定された鉄製赤色「回転式ポスト」(差入口が回転式、1908〜)

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<飛脚システム>

●継飛脚(幕府専用)


 幕府の公文書(御用状)や荷物(御用物)の輸送は、街道の宿駅制度を利用する「継飛脚」によって行なわれた。徳川幕府は、寛永10年(1633)、各宿場に給米を支給することで継飛脚のシステムを確立。

 発送は、江戸城の表右筆所→目付→伝馬役所→江戸の口宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)→各街道の宿駅という流れだった。宿場の問屋は、継飛脚専用の人足を常駐させており、昼夜を問わずリレー式に逓送された。そのスピードは、宝暦13年(1763)の急御用の場合、大坂・江戸間を約3日で届けている

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●飛脚の道具

 中央は法被、右が定飛脚(じょうびきゃく)問屋の看板。左の絵が定飛脚の図(月耕)、右の絵が越後屋(三越)前で語り合う町飛脚(広重)。下のガラスケースは奥から京屋手形箱、飛脚状、定飛脚焼印札、大細見。

 ほかに、大名用の七里飛脚などがあった。

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<そのほか>

●左が土符(室町時代)、右が木契(江戸時代、美濃地方)


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●電柱


 かつて電柱は木製だった。左は雨水から電柱の腐食を防ぐ笠木。右下は、電柱と電線を絶縁する碍子(がいし)。右中央写真は地下ケーブル敷設の様子

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●足踏式押印機、ダガン式押印機

 19世紀後半になると、各国とも郵便制度が浸透し、郵便物の増加で押印が困難になってきた。そこで、切手の消印作業をスピードアップさせるために押印機が考案された。 左:ドイツ製足踏式押印機

 明治17年(1884)、当時駅逓総官だった野村靖が欧州で購入した。東京郵便局で試用されたが、1分間に100通前後しか押印できなかったため、日本では導入されなかった 右:ダガン式押印機

 1889年に開催されたパリ万国博覧会に出品されている自動押印機。フランスのA.E.MOLU&WEIL社製。ピストン部分をバネが作動する仕組みで、15分間に1200通の手紙を消印することが可能

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●日本最古の自動販売機「自働郵便切手葉書売下機」

(じどうゆうびんきってはがきうりさげき)

 明治37年(1904)、山口県下関市の発明家俵谷高七が考案した切手の自販機。向かって右側に3銭切手の発売口、左側に1銭5厘のはがきの発売口があり、中央下部に硬貨の返却口とポストが付いている。在庫が無くなると、売切れの表示もできる仕組みだったが、実用化されなかった

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●簡保の各種ポスター


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