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逓信博物館

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博物館全景(1936年)


 明治25年(1892)、逓信省郵務局が郵便関連資料を集め、構内に一部を展示したのが逓信博物館の始まりです。当時の逓信省は木挽町にありました。

 明治32年、電気試験所参考室に保存されていた電信・電話に関する機械類と、連合総理局にあった郵便切手を合わせ、資料の拡充が行われました。そして、逓信省の東門脇にあった新館の一部約80坪を陳列所としたのです。

 明治35年6月20日、万国郵便聯合25年祝典を開催するとき、初めて資料館の名前を「郵便博物館」とし、一般公開します。

 明治38年、芝公園内にあった逓信官吏練習所に博物館を移転させ、週2日公開します。

 ところが、明治43年4月、官制改正によって所管が大臣官房に移ったことで、逓信博物館と名前が変更され、本庁の新築庁舎に移されました。

 このときは玄関の左側1階と3階の9室(231坪)が博物館に当てられ、週3日公開されています。

 そして、大正11年3月、麹町区富士見町(飯田橋駅そば)に移転。建物はヨーロッパ風3階建てで、とがった円屋根に白い壁が特徴的でした。展示場には360坪があてられました。

「ゆうびん」84号(1957年8月号)で、当時の館長が展示品の解説をしているので、以下、その内容をまとめておきます。

 玄関には「逓信博物館」と大きく書かれた金文字の看板が飾られています。

 中に入ると、1階に郵便切手室、通信日附印室、前島記念室、電信電話室、映写室、図書室などがあり、2階に郵便資料が並んでいました。

 郵便切手室は2室あり、「郵便切手鑑」という巨大なついたてが立っていました。これは明治4年に発行された日本初の「龍切手」以降の切手の歴史が一目でわかるパネルです。

その先には大英博物館を参考にした引出し式の鋼鉄製ガラスケースがずらりと並んでいて、世界最初の切手ブラック・ペニーなどが展示されています。

 珍しい資料には以下のようなものがありました。

●昭和天皇の結婚に際し、大正12年11月に発行予定だった切手
 この切手は原板が9月の関東大震災で焼失しますが、たまたま震災直前、南洋庁に先に送っておいたものが残っており、結婚式の当日、一部が両陛下に献上されています。結果的には未発行の切手となりましたが、1.5銭、3銭、8銭、20銭の4種類が残されました。
●手彫切手で、未採用になったものの原図
●日清戦争の記念切手の原版

 1階の右側半分は電信と電話に関する資料が並べられ、大パノラマやカラー写真を駆使した展示が行われていました。また廊下には、各種の写真、統計表などが掲出されていました。特に「郵便切手のできるまで」「東京中央郵便局見学」「電話器の出来るまで」「電話局の見学」などにはステレオスコープ(のぞきめがね)が備えられ、通信に関する一通りの知識が得られる構成でした。

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逓信博物館の正面(1957年)
※手前は富士見町教会。右の土手下は外濠で、中央線が走っている。戦前あった前島密の銅像が郵便局に変わっています


 2階は13室あり、郵便の過去から現在までを説明します。

「郵政事業のあゆみ」では、郵政事業の歴史、意義などを年代別で示し、東京のパノラマ式立体地図では首都の通信施設が一目でわかるようになっていました。

 古代の通信資料では、通信に用いられた駅令、文杖、矢文、文書袋、上奏箱など、各時代における通信の変遷が示されています。

 江戸時代の交通では、かご、蓮台、関札、挟箱(はさみばこ)、旅安火(たびあんか)、明荷(あけに=行李)、旅着などの品物から、北斎・広重などが描いた東海道五十三次の風景まで。

 江戸時代の通信では、大名の専用通信機関である七里飛脚、御用箱、飛脚箱、飛脚屋印鑑、胴乱(どうらん)、飛脚状、定(じょう)飛脚問屋の定め、書状賃銭大細見(だいさいけん)、営業証書などが展示されました。

 その先は明治4年に発足した郵便制度の資料が並び、日本初の郵便旗、切手売捌所(うりさばきじょ)の目じるしに立てられたフラホ(旗)、太政官の郵便に関する布告など。

 郵便局の元祖と言える駅逓司を描いた油絵は、幕府の魚会所(うおかいじょ=魚市場)の納屋を改造したもので、前島密がここにこもった職場だそうです。

 最後の部屋は、万国郵便連合記念碑の模型、各国郵政庁で毎年交換している新年の挨拶状、各国の郵便従業員の服装、郵便差出箱など。

 これに加えて特別展示室には、江戸時代の海上交通資料として、徳川家光の使った天地丸、九州細川家の泰宝丸などの御用船、千石船などの模型が集められていました。