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「国立産業技術史博物館」の設立構想について

構想の誕生

 国立産業技術史博物館は、その名の通り、技術立国である日本の産業技術の歴史を体系的に収集・保存・公開するための施設で、取り組みとしては日本初のものでした。

 構想が持ち上がった背景には、1970年ごろから日本製品が欧米に大量に輸出されるようになり、日本の工業化について世界的な関心が高まったことがあげられます。もちろん、途上国からみれば高度成長のモデルとして羨望の対象となっていたわけですが、こうした海外の研究動向に対応する用意は日本にはほとんどありませんでした。

 そうしたなか、明治以降、紡績業や製薬業、造船業などで栄えた大阪で、「産業博物館構想」が登場します。具体的には1972年、大阪府文化振興研究会が「産業博物館」設置を提唱。

 1978年には京大の吉田光邦教授(科学技術史)らが中心となって「産業史博物館を考える会」が設置され、大阪商工会議所と博物館構想について議論を始めます。

 そして1979年以降、大阪府から文部省に対して「国立産業技術史博物館」(産博)の設置が継続的に行われるようになりました。

 70年代の流れをもう少し補足しておくと、大阪には戦前から「国立民族学博物館」構想がありました。渋沢栄一の孫である渋沢敬三(後の日銀総裁、大蔵大臣)が1935年に日本民族学会を創設し、自分の集めた資料をいつか展示しようと考えていたのです。

 1965年、日本学術会議が政府に民族博物館の設置を勧告。これは前年の東京オリンピックで「国際化」が強く謳われたことも影響しているはずです。

 一方で、1970年に開催された日本万国博覧会のために京大の梅棹忠夫教授らが民族学に関する資料を集めており、万博終了後、空いた土地に「国立民族学博物館」(民博)の設置が決定されたのです。文部省内に創設準備室が作られたのが1973年で、開館したのは1977年。

 実は、「国立産業技術史博物館」の設置はこの「民博」と密接な関係にあります。「民博」を作り上げた梅棹教授が1979年に「産博」設置を提唱。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」であり、“民族”の次に“産業”が来るのは当然でもありました。

 梅棹構想に当時の岸昌(きしさかえ)府知事が乗っかります。こうして1982年には大阪府が資料収蔵庫を万博記念公園内に用意するなど、地元では熱心に活動が始まりました。同時に大阪商工会議所による『大阪の産業記念物に関する調査研究および博物館構想』という報告書も発刊されています。

盛り上がる誘致運動

 1984年、博物館構想に強力な援軍が登場します。

 まずは大阪工業会が創立70周年を記念して「産博」開設のために「産業技術史博物館推進専門委員会」を設置します。委員会は吉田光邦・京大人文科学研究所長をアドバイザーに、大阪府、研究者、企業代表の17人で構成されました。

 続いて吉田氏は「日本産業技術史研究学会」を発足させます。これは最盛期には450人もの会員を誇る大きな学会となり、産業界と学界の両輪で博物館構想が進展することになるのでした。

 さらにこの年の末には、大阪府のコスモポリス構想を具体化するため、大阪府と大阪工業会によって「コスモポリス地域先端産業立地推進協議会」の設立が合意されました。

 これは関西新空港の建設を軸に、周辺交通網の整備、先端産業団地の創設による経済振興を目指したものですが、この象徴として「産博」誘致が決定したのです。

 大阪工業会は、文部省から補助金を受けている「産業技術記念物調査会」とともに、全国の産業技術記念物の調査を進めました(製造メーカー3878社にアンケート調査し、回答は1084社。総予算は約9000万円)。

 1985年の中間報告によれば、日本初といわれる輸入機械148件、国産機械116件、さらに江戸〜明治の貴重な遺産などが国内に数多く保存されていることが判明。

 具体的には1864年のアメリカ製ガスメーター(大阪ガス)、国鉄の国産1号電車(松本電鉄)、明治以来の全製品とカタログ(資生堂)、木製旋盤(島津製作所)などで、こうした資料の散逸を防ぐために、国立博物館の必要性が強調されたわけです。

 ちなみにこのときの実地調査で、奈良県香芝町の鋳造所から木製天井走行クレーンが見つけ出され、「産博」に収蔵されることになりました。

 さらに大阪工業会はロンドンやドイツ、オランダ等の産業博物館の視察も行い、先進国で技術史博物館がないのは日本だけだとの見解を明らかにしました。

 1986年には大阪商工会議所、関西経済連合会など関西経済5団体が「国立産業技術史博物館誘致促進協議会」を発足させました。以後、この協議会が誘致の中心となります。

 当時、国鉄が民営化され、余剰人員をどう吸収していくかが財界のテーマでした。余剰人員をどう内需拡大に結びつけるか? その流れのなかで、コスモポリス構想や「国際花と緑の博覧会」「関西文化学術研究都市」などが議論されていたわけで、当然、博物館構想も重視されていました。

 余談ながらこの当時はバブルが弾ける直前であり、全国に博物館が急増していました。日本博物館協会のまとめでは、1981年以降5年間で400以上も増え、全国ではなんと2500もありました。よそが作ればうちも作るという、まさに没個性的な博物館建造ラッシュが起きていたわけです。

具体化した構想の内容とは?

 1987年には関西電力が尼崎第1、第2発電所の主要部品を「日本産業技術史学会」に寄贈しました。尼崎発電所は戦後の経済復興を支え、一時は関西の電力需要の3分の2を支えた大発電所なので、産博の目玉としたいというラブコールが実現した形です。また、この年に初めて大阪府などが自民党に産博の大阪誘致に関する予算取りを要求しています。

 この年の夏、協議会は産博の展示計画案をまとめています。

「狭義の産業技術史にとどまらず、技術文明史の全容を理解し、未来の科学技術の発展に貢献できる内容にしたい」(当時の会長の弁)ということで、場所は民博の隣、敷地面積は5万7000平方メートル、延べ床面積は約4万平方メートル。展示は15室で総面積約1万4700平方メートル。これに資料収蔵庫や情報センター、研究所などが加わる壮大なものでした。建設費は200〜300億円、年間運営費は10億円強と見込んでいます。

 展示は「抽象」と「具体」の2コースを設定し、いずれも「究極の創造の場」である「遊」エリアに至るようになっていました。さらに単なる陳列ではなく、入館者が実際に産業技術を体験できる参加方式にするとされました。この参加方式というのが産博の肝で、収蔵資料はほとんどが実際に稼動するものでした。

 産博の構想に黄信号がともるのは、やはりバブル崩壊がきっかけでした。

 1990年、展示館と研究所の2つの機能を設ける構想に対し、文部省から「展示館は第三セクター方式で」と打診されます。文部省としては九州国立博物館など全国からの要望を勘案するなかで、採算などを厳しく見直し始めたわけです。さらに1991年には、産博誘致の中心人物だった吉田光邦氏が死去したことも大きな影響を与えました。

 景気の悪化とともに、博物館構想は大阪市の内部からも批判の声にさらされます。

 実は、大阪市では1989年の市制100周年をきっかけとして、「文化都市づくり」をキーワードに、各部局でてんでばらばらに博物館づくりが構想されていました。当時の新聞からあげるだけで、「歴史新博物館」「考古資料センター」「近代文学館」「近代美術館」「銅の文化博物館」「埋蔵文化財センター」「海洋博物館」「陸遊館」「まちづくり文化センター」「映像情報センター」「商業博物館」「水道記念館」「下水道科学館」などなど……。

 行政内部からも税金のムダ遣いの声があがるのは当然のことでした。

 一方、1994年になると、神戸市が「二十世紀メモリアル博物館群」構想を発表。国家プロジェクトとしてアメリカのスミソニアン博物館級の博物館を作ろうという壮大な計画です。全体を都市文明博物館群、科学技術文明博物館群、自然とくらしの文明博物館群の3群に分け、合計で10館程度整備するという……そのなかには産業技術史博物館や科学技術博物館が含まれており、まさに産博と競合することになりました。

 こうして、1997年には誘致運動自体が事実上ストップ。寄贈品は万博公園内の旧三越食堂に仮収蔵されていましたが、この旧食堂の解体により旧鉄鋼館に移されました。ところが鉄鋼館も解体が決まり、その処理に解決がつかないまま、2008年末には協議会そのものが解散してしまいました。

 もし収蔵品をよそに移すとしたら、倉庫代が年に1000万円はかかることが最大の理由でした。こうして、2万点以上の収蔵品が廃棄されたのでした。