1936年5月18日、世の中を震撼させる事件が起きました。
 荒川区尾久の待合で、女が愛人の首を絞めて殺し、局部を切り取ったのです。いわゆる「阿部定事件」です。

 当時の新聞は、

《待合のグロ犯罪/夜会巻(やかいまき)の年増美人/情痴の主人殺し/滴(したたる)る血汐(ちしお)で記す「定、吉二人」/円タクで行方を晦(くらま)す》(『東京日日新聞』)

 とセンセーショナルに見出しを打ちました。事件は、二・二六事件後の閉塞感漂う世相の中で、きわめて屈折した盛り上がりを見せます。

 1905年5月28日に生まれた阿部定は、江戸時代から続いた畳屋の娘で、裕福に育ちました。ところが、家運が傾いたことで、身を持ち崩し始めます。

 17歳ごろ芸者となって、日本各地を転々とします。そして30歳のとき、女中として働いていた東京中野にある「石田屋」の主人・石田吉蔵を、性交中に殺害するのです。

 いったいなぜ、阿部定は情夫を殺したのか? なぜ陰部を切り取り、持ち去ったのか?

 実はこの事件では、阿部定の予審調書(予備審問における自供調書)が世間に流出し、そのあたりの話が、すべて本人の口で語られています。

 たとえば「どうして殺したのか」と聞かれ、こう答えています。

《私はあの人が好きでたまらず、自分で独占したいと思いつめた末、あの人は私と夫婦でないから、あの人が生きていれば、ほかの女に触れることになるでしょう。殺してしまえば、ほかの女が指一本触れなくなりますから、殺してしまったのです》(第1回尋問)

 つまり、愛する果ての殺人だと語ったのです。

 世間では「阿部定は色キチガイだ」との意見も出ましたが、これに対しても、きっぱりと否定しています。

《私が変態性欲者であるかどうかは、私の今までのことを調べてもらえば、よくわかると思います。今までどんな男にも、石田と同じようなことをしたわけではありません》(第6回尋問)

 阿部定は、事件から2日後に逮捕されました。

 1936年12月22日、東京刑事裁判所で懲役6年を言い渡され、栃木刑務所に服役します。ところが1940年の「紀元2600年」式典による恩赦で刑期が半分になり、1941年5月17日に出所します。

 その後、1948年には『阿部定手記』を出版、1969年には映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に出演しました。

 そして、1974年頃を最後に行方がわからなくなっています。

 そんなわけで、本サイトでは阿部定の予審調書を全文公開することにしました。

 そこには、初体験は15歳のときに慶応の学生から関係させられたこと(第2回)、石田との情交(第4回)、局部を切り取ったときの様子(第5回)、警察に逮捕されたときの様子(第6回)などがすべて詳細に語られています。

 猟奇的な記述・表現が含まれていますが、歴史上まれに見る純愛物語と言っても過言ではありません。

 ちなみに石田を殺した際、阿部定は石田宛の遺書を書いています。そこには、

「私の一番好きなあなた。死んで私のものになりました」

 と書いてありました。