5回訊問

問 石田と別れたが、また石田を誘って511日から待合「満左喜」に泊り込んだのか。

答 左様です。中野町新高の待合「関弥」で石田と別れ、57日昼頃、下谷区入谷町51、稲葉正武方に参りましたが、急に空腹になったので、持って行ったお土産の寿司を取り出し、家人と一緒にそれを食べたり、支那そばを取ったり、お茶を飲んだりして、さて寝でもしようかと、急に今頃、石田は家内とゴテクサ遣っているだろうなどと考え出し、堪らなくなりました。

 そして石田を帰してやるのではなかった、よくすんなり帰してやったものだと自分で自分を疑い、今度会ったらどんな事をしても帰すまいと思うほど、石田に執着した気持ちでどうすることも出来ませんでした。

 仕方なく稲葉方でビール31人で飲み、気持ちを紛らしていました。夜寝てからも、石田の事ばかり考えて寝付かれず、一層中野へ行って見て遣ろうかしら、畜生と、焼餅が焼けてなりませんでしたから、2階の寝間から下へ降りて、煙草を吸ったり雑誌を読んだりしていました。

 8日の日も同じ様な気持ちで1日暮しましたが、殊に昼間ラジオで清元(江戸浄瑠璃の一派)の放送があったため、余計に石田を思い出し、中野へ電話をしようか、活動でも見に出かけ様かと思いながら、2階で雑誌を読んだり転寝したりして暮しました。

 殊に吉田屋の様子を一々よく知っているものですから、時計を見ながら手に取る様に石田の生活が想像されるので、この時くらい嫉妬のため苦しんだ事は生れて始めてです。


 8日の晩もやはり寝付かれず、夜中になるほど癪に触って来て、気がいらいらするので、階下へ下り、自分の襦袢を縫っておりました。お裁縫しながらも石田の事ばかり考え、妾になんかなって半分半分の生活をしても詰まらないから、夫婦になるより仕方がない、石田と夫婦になるには他所へ逃げるより方法はないが、石田は逃げる人でもなしなど考えると、一層石田を殺してしまうかとまで思いましたが、嫉妬から左様な色々な事を思うので、結局とりとめのない考えでした。

 9日は稲葉方で成田様へ行くため、留守番を頼まれ留守居したが、本も碌々読まず、やはり石田の事ばかり考えておりました。

 その晩も碌々寝られず、10日は大掃除だったので、近所の喫茶店に行き、ビールを飲んで夕方帰ると、7日に注文した羽織が届いたので、紐を買うため浅草に出かけて、明治座で芝居を見ましたが、身を入れて見る気はなく、役者を見ても石田の方がいいなあと、やはり石田の事ばかり考えておりました。

 その芝居には出刃庖丁を使う場面があったので、自分も出刃庖丁を買って、石田に巫山戯(ふざけ)てやろうという気になり、その晩11時頃、稲葉方へ帰りました。石田と別れる時、56日経ったら会う事でしたが、とても待ち切れぬから、とにかく「玉寿司」へ電話してみようと思い、ちょうど稲葉夫婦が留守だったので子供をお使いに出し、「玉寿司」へ石田から何か話はなかったかと電話すると、先方から電話番号を聞いて置いてくれとの事だったので、それではもう一度電話で知らせると云って切りましたから、その時は嬉しくて慄え上りました。

 早速トランクを持って稲葉方を出かけ、新宿の明治屋に行ってビールを飲んでから、その晩泊り、翌11日、小遣が不足したので上野の小野古衣店に袷(あわせ)と半天を売りに行った時、小僧だけであったから、品物を預けて活動を見たり、明治製菓でウイスキーの入ったコーヒーを飲んだりしてから古着屋に戻り、品物を4円で売ってから近所の「幸寿司」で寿司を買い、ついでに電話を借りて玉寿司に電話をかけ、明治屋旅館の番号を知らして置きました。

 それから「幸寿司」の23軒先きの「菊屋金物屋」で手刀一挺を90銭で買い、大塚の照子姉さんにお金を借り様としましたが、忙しいから会えないとの事で、そのまま明治屋旅館に帰りました。

 明治屋旅館では、以前、大宮先生と泊った事があって、夫婦まで来て、私を奥さんと呼びサービスしてくれました。今まで私は先生に気兼ねして旅館では上品にしておりましたが、その晩はすぐ石田と会えるので嬉しくてたまらず、先生は問題でなかったから煙草は吸う、ビールは飲むという風だったので、旅館でも吃驚していたことと思います。

 私がビールを飲んでいる時、午後7時半頃、石田から電話がかかって来ました。帳場の卓上電話で旅館の人達に聞えたが、酔っていたし嬉しまぎれに遠慮なく甘ったれた話を石田としたので、今考えて醜態だったと思います。

 とにかく石田は「14日まで待て」と云いましたが、私は「厭だ、是非会いたいから中野館へ行く」と云って連絡を取ったのですが、その時、途中で電話が切れてガッカリしましたが、また石田からかかって来ましたので、とても嬉しく思いました。

 この様にして、511日午後8時半頃、中野館で石田と落合い、再び待合に泊り込む様になったのです。

問 被告は何故石田をこの様にまで恋慕愛着したか。

答 石田のどこがよかったかと云われても、ここと云って答えることは出来ませんが、石田は様子と云い態度と云い、心持でけなすところ一つもなく、あれほどの色男に会った事はありません。42とはとても思えず、精々2728に見え、皮膚の色は20台の男の様でありました。

 気持ちは極(ご)く単純で、一寸した事でもとても嬉しがり、感情家ですぐ態度に表わし、赤ん坊の様に無邪気で、私が何をしても喜んでおり、甘えておりました。

 ある時は、私の赤い長襦袢を着せると、それを着たまま寝ており、私と一緒に待合に泊り歩いても一度も口を出した事もありません。また、石田は寝間がとても巧者な男で、情事の時は女の気持ちをよく知っており、自分は長く辛棒して、私が充分気持ちをよくする様にしてくれと、口説百万陀羅で女の気持ちをよくすることに努力し、一度情交しても、またすぐ大きくなるという精力振りでした。

 私は石田が技巧だけでなく、本当に私に惚れて情事をするのかどうか試したことがありました。申上げるのも失礼やら愧しいやらですが、423日、吉田屋を家出した時、私は月経で、お腰が少し汚れていたのですが、それでも石田は厭がらず、触ったり舐めたりしてくれました。

 42728日頃、待合「田川」にいた時、私が椎茸のお吸物をアツらえ、石田に「本当に惚れ合うと椎茸やお刺身を前に付けて食べるんだってね」と云うと、石田は「俺だってしてやるよ」と云ったので、お吸物から椎茸を出して箸でそれを私の前に差込み、汁を付けてチャブ台の上に置いたところ、暫く巫山戯(ふざけ)てから石田がそれを半分食べて、私もそれを半分食べました。

 私が余り可愛くて気が詰まるほど石田をギュッと抱きながら、「誰ともよい事をしない様に殺しちまうかしら」と石田に云うと、石田は「お前のためなら死んでやるよ」と云ったり、545日頃、「満左喜」にいた当時、「金が続かないから家に帰らなければならない」と云うので、私が石田のものを取ってしまうと云うと、石田は「家へ帰ったってしやしないよ、お前だけだよ」と云ったり、冗談にせよ、石田は恋の技巧がとても上手でした。

 その他、石田が私に親切であったことは。今まで述べた通りでしたから、石田と初めて関係してから、段々石田に心を惹かれ、423日から57日まで2週間も待合を泊り歩いたのですから、普通なら飽きが来る筈ですが、どうしても石田と一緒にいると益々よくなるばかりで、一旦別れて8日から10日まで1人でいた時の嫉妬と焦燥の気持ちは今考えてもあれほど辛かった事はありません。

 511日午後8時半頃、私が円タクで省線中野駅に行くと、石田がセルに兵児帯姿で来ており、私は余りの嬉しさに転げる様に自動車から下りました。2人が暗がりのところに行くと、石田は「一度切れた電話をかけるだけ、俺はやはり惚れているんだ」と云いました。

 私は包から牛刀を出して「吉、手前、着物なんか着てトクさんの御機嫌を取ったんだろう、畜生、手前を殺して死んじまうから」と芝居もどきで脅かすと、石田は吃驚して少し除けましたが、とても嬉しそうに、「よせよせ、人に見られると大変だ」と云い、「御機嫌とる騒ぎでない、半月くらい我慢していないと大変だよ、オトクが喧ましくて金が自由にならない」と云いましたから、私は石田に「でも今夜帰らないよ」と云うと、「金はこれだけしかない」と云って20円出しましたから、それを受取り、中野駅付近のおでんやに2人が行き、酒を3本飲みましたが、後で聞くとキッスしたり抱き付いたり大変だったそうですが、私は当時酔ってしまっており、何をしたか覚えていませんでした。それから「満左喜」に行って泊ろうと石田を誘い、円タクでまた尾久へ出かけ、夜9時頃行きました。

問 その後、その待合で流連した模様は。

答 「満左喜」に行ってからは、女中が来ても誰が来ても、石田に食い付いて離れず、嬉しくて泣けましたが、同時に3日ばかり別れていた間、石田がお内儀さんにしてやった事を想像して焼けてならず、嬉しいとか憎いとかが一緒になって、石田を可愛がったり虐めたり目茶目茶でした。

 石田に聞くと、石田は7日の朝、俺はお前が先に帰ってしまった事が癪に触って、「関弥」から板橋の「兎月園」に遊びに行き、1泊してから、翌日電話で家から金を取りよせ、自宅に帰ったが、案外、家内が八釜(やかま)しいので、実はお加代と遊び歩いたのだが、俺から好きな訳ではないが、お加代に引張られたのだ、今度、お加代とは絶対に関係しないと云っても家内は信用しないから、今のところでは、100200もの金は自由にならないが、辛棒してくれと云いました。

 石田はまた、「家内とは関係しなかったが、家内が寄って来たから、けり飛ばした」と云っておりましたが、石田と家出中、私が買って遣った下帯を締めさしていたところが、その時は別の下帯をしておりましたし、3日もの間帰っていって、お内儀さんと関係しない筈はないと思うと、石田が何と云っても私の気持ちが直らず、石田と関係しては、後で石田の身体をところ嫌わずツネったり、引っ叩いたり、噛んだりして虐めました。

 石田は私から何をされても怒る様な事はなく、「どんなことでもしてやるから勘弁してくれ、お前と別れてから俺は焦燥に馳られていたよ」と云いました。私はその意味が判らなかったものですから、誤魔化すために態(わざ)とインチキな言葉を使ったのだと云って、石田を虐めると、布団の中へ潜り込んで「俺を殺すなよ」と云っておりました。

 とにかく、11日の晩のことは、焦れている男に100年振りに会った様な嬉しさで、到底お話出来ないくらいで、泣いたり巫山戯(ふざけ)けたり、夜通し寝ませんでした。やはりその晩も、牛刀を出して逆手に持ち「ヤイ、吉」と云って切付ける真似をする。石田は「小道具が足りない、逆手に持つ時は出刃にして貰いたいね。板につかないよ。そんなものでは殺せない」と嬉しがっており、また、牛刀を石田のオチンコの根元につけて他の女と何も出来ない様に切ってしまうと云うと、石田は笑いながら「此奴(こやつ)馬鹿だな」と云って喜んでおりました。

 翌12日になって、女中に見られるといけないと思いましたから、牛刀は額の裏に隠し置き、13日の夜、芸者を1人呼んで1時間半くらい遊んだのと、15日の夕方から夜11時頃まで私が大宮先生と会うため外出したのと、16日の夕方石田が理髪に出かけたのとの外は、18日夜明方、石田を殺すまで寝床を敷いたまま石田と2人裸で寝てばかりおりました。

 その間2人の情事は、以前待合を泊り歩いた時より猛烈で、夜も碌々寝ず、殆ど入浴もしませんでした。

 大宮先生とは57日の約束で午後5時頃銀座で会い、ある小料理屋で食事し、品川の「夢の里」へ行って1時間半くらい遊び、その際先生と御義理に関係しました。石田の事ばかり考えており、何の興味も出ませんでした。先生から50円貰い円タクで帰り、先生は四谷で下り、私はそのまま尾久へ帰りました。

 夜
11時頃「さくら」の間に部屋が変っており、石田は寝ていましたが、私に「やい、俺の事ばかり云いやがって」と云い、「男に会って来たのではないよ」と云っても「俺が今度出刃庖丁を買って来ねばならない」と云いました。

 私は大宮先生とビールを少し飲んだため、顔に出ていたので、テレ腐かったから座敷にあったビールを1杯飲んでからお風呂に入って来ると、石田は「ヤマしい事があるから風呂に入ったのだろう」と云い、私をツネったり髪の毛を引張ったりしましたが、虐められて反って嬉しく思いました。

 石田には勿論50円貰って来た事を話しましたが、石田としては私が男から貰ってくる事は当然判っていた筈で、焼く様な風をしてその場を面白くしたに過ぎません。

問 516日、石田の頸を締めながら関係した模様を述べよ。

答 その前123日頃、先ほど述べた様に石田を虐めていた時、石田の咽喉を指で締めた事がありましたが、その時、石田は「咽喉を締める事はいいんだってね」と云いましたから、私は「そう、それでは締めて頂戴」と云い、石田と関係しながら締めて貰いましたが、石田は少しも気持ちがよくないと、何だかお前が可愛想だから厭だと云うので、今度は私が上になって石田の咽喉を締めましたが、石田はクスぐったいから止せと云いました。

 16日の晩、石田に抱かれていると、とても可愛くなり、どうしようかと判らなくなり、石田を噛んだり息が止るほど抱き締めて関係する事を思い付き、石田に「今度は紐で締るわよ」と云って、枕元にあった私の腰紐を取り、石田の頸を巻き付けて両手で紐の端を持ち、私が石田の上になって情交しながら、頸を締めたり緩めたりしていました。

 初め石田は面白がってオデコを叩いたり、時に舌を出すと同じ様な巫山戯(ふざけ)方をして、頸を締めると舌を出して巫山戯ており、途中止めて紐を首に巻き付けたまま酒を飲み、頸を締めながら関係するという具合にしており、少し頸を締めると腹が出てオチンコがビクビクして気持ちがいいものですから、石田にそれを話しすると、「お前がよければ、少し苦しくとも我慢するよ」と云い、その頃は石田はヘトヘトに疲れてしまって、眼をショボショボしておりましたから、私が「厭なんでしょう。厭ならもっと締めるよ」と云うと、石田は「厭じゃない。厭じゃない。俺の身体はどうにでもしてくれ」と云っていました。

 なお紐を締めたり緩めたりして関係して2時間くらい巫山戯ているうち、17日午前2時頃でしたが、私が下の方の具合ばかり見てつい力が這入り、ギュウと頸を締めたため、石田は「ウー」と一声唸り、石田のオチンコが急に小さくなったので、私は驚いて紐を放すと、石田は起き上り、「お加代」と云ったり私に抱き付いて少し泣いた様でしたから、私は胸を擦ってやっておりました。

 暫くしてから石田が「どうしたんだろう頸が熱いよ」と云い、頸が赤くなっており、眼が少し腫れ上り、頸に紐の跡が付いていたので、私は早速石田を風呂場に連れて行き、頸を洗ってやったりしておりました。その時でも退屈のため石田の局部を触るとすぐ立ちましたから、シャブッタリなどしてやりました。石田の頸はとても酷かったのですが、鏡を見てそれが判って「ヒドい事をしたな」と云っただけで少しも怒りませんでした。

 17日の朝、柳川や酢のものを取って食べたり、石田に食べさしたりし、私だけ酒を飲みましたが、石田は人に顔を見られるのが厭で、下に顔を洗いに行きませんから、水を持って来てやって優しくしておりました。

 
11時頃、私だけ酒を飲み、情欲が起きたので。石田のものを弄(いじ)っていると、石田は出来ないかも知れないがしてやるから此方へ来いと云いますから、布団の中で石田と関係し、草臥(くたび)れて一寸寝て起ると午後1時頃でしたが、やはり石田の頸は直らないので、私は「そんな顔では外に出られないから医者を呼んで来よう」と云うと、石田は「この前みつわで医者を呼んだ時にも何か飲んだかと聞かれたくらいだから、今度医者に診て貰うと、警察に届けられるから止せ」と云いました。

 医者を止めて、頸を冷したり身体を揉んだりしておりましたが、少しも治らないので、「晩方、薬買いに行ったついでに薬局に相談して来るから待っていなさい」と云うと、石田は「薬屋にはお客が喧嘩して咽喉を締められ、頸が赤くなったと云った方がよい」と云ったので、銀座の資生堂に行ってその話をして相談すると、薬局では「それは血管が腫れたのだから静かに寝かせて流動物を執(と)る外、手当の方法はない。治るまで12月かかる」と云いましたから、目の赤くなったのを治すため目薬を1瓶だけ買って「モナミ」という喫茶店に行き、夕食にチキンライスを食べ、コーヒーを飲み、土産に野菜スープと西洋菓子を買ってまた資生堂に戻り、「早い話が水を薬瓶に入れて飲ませば気休めになりますから、何か薬を入れて下さい」と頼むと、薬局では「これを持っていらっしゃい」と云い、30錠入りカルモチン1箱を出し、「3粒以上飲ませてはいけませぬよ」と云いましたから、それを買って70銭払い、千疋屋に立ち寄り140銭の西瓜1個買って午後9時頃「満左喜」に帰りました。

 帰ると石田は寝ていたが、すぐ起き、私が薬局で聞いた話をすると、石田は困ったなと云い、金がないからここの家にそう長くいる訳にも行かないし、どうしようかと少し悲観しており可愛想でした。その時は牛刀を忘れていったものですから、女中に庖丁を借りて西瓜を切り、石田に食べさし、女中にスープを温めて貰い、スープと一緒にカルモチン3粒飲ませました。
 
 なお、石田は朝柳川を食べただけでしたから、お腹が空いたと云うので、ウドンカケ1つ取って食べさせ、私はのり巻を取って食べました。石田は「カルモチン3粒くらい効力ないよ」と云いますから、「皆飲んでも大丈夫よ」と云い、また5粒飲ませ、暫くクチャクチャ話をしておりました。

 その間、石田は半身を私に抱かれていたので、私の手が自然と石田のオチンコに触れる様になってしまい、手が触れると石田のが大きくなりますが、進んで情交するほどの元気はありませんでした。夜が段々遅くなってから雑水を一人前注文して、それを一緒にまたカルモチン56粒飲ませると、その頃から石田は眼をショボショボさせておりましたが、まだ寝ないで私に「一寸帰るより外仕方がない、勘定も足りないから」と云い、「私は帰りたくない」と云うと「帰れないってこの顔でこの家にいれば女中に見られキマリが悪いし、どっちにしても帰らなければならぬ、仕方がないから、お前は下谷の家が居心地悪ければ、何とか都合してどこかの家にいてくれ」と情けない事を云いました。

 私は「どうしても帰りたくない」と云いますと、それではここの勘定は借りて置き、知合があるから湯河原へ行って、お前と23日いてからオトクを呼んで帰る事にしようと云いました。

 私は「それでもいやだ」と云うと「そんなに何もかもイヤだってしょうがない。お前も最初から俺に子供のある事を知っていたのだし、ソウソウ2人で食付いている訳にも行かない。お互に末長く楽しもうとするには、少しくらいの事は我慢してくれなければならない」と云うので、愈々(いよいよ)石田は一時別れる気だなと思い、私が声を出して泣くと、石田も涙ながらに私に色々の話をするのでした。

 私は石田から優しく云われるほど癪に触って、石田の云う事を聞き分け様とする気はなく、どうしたら石田と一緒にいられるかという事だけしか考えず、石田の話は半分上の空で聞いておりました。

 なお石田は「女房は家の飾物だから、それほど焼餅を焼く事はない。商売するための方法を考えなければならぬ。お互に愚図愚図して家中に騒がれるほど結局お互に損だ」と云っておりました。

 そのうち女中が前に注文して置いた鶏のスープを持って来たので、石田にそれを飲ませて、12時頃、2人布団に這入りました。石田は元気がありませんでしたが、私が少し膨れていたので、慰めるため私の前を舐めたり何かして機嫌を取ってくれ、石田が上になって関係しました。関係してから石田は少し眠いから眠るよ、お前起きていて俺の顔を見ておってくれ、と云いますから、私は起きて見ていてあげるからゆっくり寝なさいと云い、半身を起して石田の顔の上に頬を擦り付けていると、石田はウトウトとしておりました。

 57日から10日まで石田と別れて自分一人稲葉方にいた当時、石田の事ばかり考えて辛い思いをし、石田を殺してしまおうかしらという考えが出ました。それはすぐ他の気持ちに打消されていたところ、その晩、石田から色々云い聞かされ、頸を直すためには、将来2人が立ち行くためにも一時別れなければならないと云われたので、石田の寝顔を見ているうち、石田が家へ帰れば自分が介抱した様にお内儀さんが介抱するに極(きま)っているし、今度別れれば、どうせ1月も2月も会えないのだ、この間でさえ辛かったのだから、とても我慢出来る者ではないと思い、どうしても石田を帰したくありませんでした。

 石田は私から「心中してくれ」とか「どこかへ逃げてくれ」と云ったところ、今まで待合を出させて末永く楽しもうと云っていたし、石田としては現在出世したのですから、今の立場で死ぬとか駈落するとかは考えられませぬから、私の云うのを断ることは判り切っているので、私は心中や駈落はてんで問題にしていなかったから、結局、石田を殺して永遠に自分のものにする外ないと決心したのです。

問 熟睡中、被告の腰紐で石田の頸部を緊迫した顛末を述べよ。

答 石田がウトウトしている時、私は南枕に寝ている石田の右側に横になり、石田の右手は私の脇の下から背中の方へ延びて私を抱える様な恰好になっており、私は左の手で石田の頭の方を抱える様な恰好をし、左手を左肩の辺に置き、寝顔を見守っていると、石田は時々パッと目を開き、私がいるのを見て安心して、また目を閉じる様にしていたが、その間「オカヨ、お前、俺が寝たらまた締めるのだろうな」と云い、私は「うん」と云いながらにやりとすると「締めるなら途中で手を離すなよ、後がとても苦しいから」と云いました。

 その時、私はこの人は自分に殺されるのを望んでいるのか知らと不図(ふと)思いましたが、そんな筈のないことは色々の事から判り切った事ですから、勿論、冗談だとすぐ思い直しました。
 そのうち石田が寝た様子ですから、右手を延して枕元にあった私の桃色の腰紐を取り上げて、紐の端を左手で頸の下に差し込み、頸に
2巻まいてから紐の両端を握り、少し加減して締めたところ、石田がパッと目を開けて「オカヨ」と云いながら少し身体を上げ、私に抱きつく様にしましたから、私は石田の胸に顔を擦り付けて「勘弁して」と泣き、紐の両端を力一杯引き締めました。石田が「ウーン」と一度ウナリ、両手をブルブル震わせて、やがてグッタリしてしまったので、紐を離しました。

 私はどうにも身が震えてなりませんから、卓子の上にあった酒の1杯這入っているお銚子を取り上げ、ラッパ飲みに全部飲んでから石田が生き返らない様に咽喉の正面の辺りで腰紐を堅く一度結び、残りの部分を頸にグルグル巻き付けて両端を石田の枕の下に差し込んで置きました。それから様子を見るため下に降りた時、帳場の時計を見ましたが午前2時一寸過ぎでした。

問 その後は被告は、石田の陰茎、陰嚢を切り取り、左腕に自分の名を刻み込み、死体や敷布に血で字を書き残して「満左喜」を逃げた様子を述べよ。

答 私は石田を殺してしまうとすっかり安心して、肩の重荷が下りたような感じがして、気分が朗らかになりました。

 下に降りた時、持って来たビールを
1本飲んでから石田の横に寝て、石田の咽喉がカラカラに乾いているようですから、石田の舌を舐めて濡らしてやったり、石田の顔を拭いてやったりしておりましたが、死骸の側にいる様な気はせず、石田が生きている時より可愛らしいような気持ちで朝方まで一緒に寝ており、オチンチンを弄(いじ)ったり、一寸自分の前に当ててみたりしておりましたが、その間、色々の事を考えているうちに「石田は死んでしまったのだな。これからどうなるだろう。石田を殺しては自分も死ななければしょうがないかな」と考えたり、16日の昼頃、神田の万成館にいる大宮先生宛の手紙を「満左喜」の女中に届けて貰ったから、この事件でキット先生が警察から調べられるが、飛んだ事をした、一目会ったらお詫びしようと思ったりしました。

 石田のオチンコを弄っているうち、切って持って行こうと思い、額の裏に隠して置いた牛刀を出して根元に牛刀を当てて切って見ましたが、すぐは切れず、かなり時間がかかりました。その時、牛刀が滑って、腿の辺にも創を付けました。それから睾丸を切り取るため、また嚢の元に牛刀を当てて切りましたが、仲々切れず、嚢が少し残ったように思います。

 塵紙を拡げて切り取ったオチンコや睾丸をその上に置きましたが、切口から沢山血が出るので、塵紙で押えており、それから切口から出る血を左の人差し指につけて自分の着ていた長襦袢と袖と襟に塗付け、なお石田の左腿にその血で「定、吉、二人」と書き、敷布にも書きました。

 次に牛刀で「定」という自分の名を刻み込んでから、窓にあった金盥で手を洗い、石田の枕元に置いてあった「富士」という雑誌の表紙の包紙を剥ぎ、その紙に切り取ったオチンチンと睾丸を包み、乱れ籠に脱いであった石田の6尺褌を腹に巻き付け、お腹のところへ肌へ付けてオチンチンの包みを差し込み、それから石田のシャツを着て、ズボン下を穿き、その上に自分の着物を着て帯を締め、すっかり仕度をしてから座敷を片付け、牛刀の血は拭き取り、汚れものは新聞紙に包んで2階の便所に捨てました。

 ところが途中に支(つか)えたものですから、手を洗ってあった水や便所の手洗水を流し込み、まだ足らないので、下からもトタン桶に水を汲んで来て、便所に流して綺麗にしました。その際、便所の手流を逆さにして水を流したため、その蓋を便所に落してしまいました。

 すっかり仕度が出来てから、牛刀を新聞紙に包んだものだけを持って石田に別れのキッスをして、死骸には布や毛布をかけ、手拭で顔を覆い、石田の枕元に雑誌を拡げて石田が読んだように見せかけて置き、午前8時頃、下に降りて女中さんに、「一寸菓子を買ってきますから昼頃まで起さないで下さい」と話し、「満左喜」の頼み付の自動車屋を自分が電話をかけて呼び、その自動車に乗って逃げました。

問 何故石田の陰茎や陰嚢を切取って持出したか。

答 それは一番可愛い大事なものだから、そのままにして置けば、湯棺でもする時、お内儀さんが触るに違いがないから、誰にも触らせたくないのと、どうせ石田の死骸をそこに置いて逃げなければなりませぬが、石田のオチンチンがあれば、石田と一緒の様な気がして淋しくないと思ったからです。

 何故、石田の腿や敷布に「定、吉、二人」と書いたかと云いますと、石田を殺してしまうと、これですっかり石田は完全に自分のものだという意味で人に知らせたい様な気がして、私の名前と石田の名前とを1字づつ取って定、吉、二人キリと書いたのです。

問 石田の左腕に、何故「定」と刻(ほ)り付けたか。

答 石田の身体に私を付けて行って貰いたかったために自分の名を彫りつけたのです。

問 何故、石田の褌や下着を肌に着けて出たのか。

答 その褌や下着は男の臭がして石田臭いから、石田の形見に自分の身体に着けて出たのです。