第6回訊問
問 被告が待合「満左喜」で本年5月17日の晩、石田にカルモチンを飲ませた時、これがため石田が死にはせぬかと思わなかったか。
答 30錠入り1罐全部飲ませたところで死ぬ様なことはないと思いました。もし死ぬ様な危険があれば薬屋で売る筈はないし、カルモチンで死ぬには100錠以上飲まなければならないことを新聞で読んで知っておりました。
問 被告は「満左喜」にいる間、石田の着物を隠したそうだが、何故か。
答 石田が無断で帰ることはないと思っておりましたが、着物を隠して帰らせないほど私が惚れておったのでもあるし、冗談もあったのです。
問 石田は何とかして帰りたがっていたのではないか。
答 無論、石田の腹の中は知りませんが、私に対して左様な様子は見せませんでした。もし本当に帰りたいのなら、帰る折は幾らでもあった筈です。
15日は私が留守にしましたし、16日は石田に5円持たせて理髪へ遣ったし、着物を隠したと云っても探せばすぐ判る程度なので、それがため石田が帰れなかったという事はありません。
石田は5月17日の夜中に初めて帰宅する話を持出しました。
問 被告は5月11日以後、待合「満左喜」にいる間、諸所へ電話をかけたそうだが、何故か。
答 12日に下谷の稲葉の家内黒川はなと中野の玉寿司、新宿の明治屋の3ケ所へかけ、16日にまた黒川へかけましたが、12日黒川へかけた用事は「昨夜お話ししないで突然外出したが15日までに帰る」という知らせをするためであり、玉寿司へかけたのは明治屋の電話番号が判らなかったからそれを問い合すためでありました。
16日に黒川に電話したのは待合「満左喜」にずるずる長居して何となく極りが悪いから、待合の帳場へわざと聞える様に黒川へ電話をかけ、1日2日に帰る様なことを云って取りつくろったり、また探るためもありました。明治屋へかけたのは昨夜勘定もせずに出たため、その言訳をするためでありました。
念のため申上げますが、その頃から石田を殺す気があり、殺した後の事を考えて人の目を誤魔化すため左様な電話をかけたのではありません。当時、石田を殺す気があったとすれば電話などを方々へかける様な事はありません。
問 被告は5月15〜16日、大宮五郎にいかなる手紙を届けたか。
答 50円使いの者に渡して下さいという手紙でした。
問 その金を貰ってどうする心算であったか。
答 その頃持っておった金は45円でしたから、待合の勘定にはとても足らないと思い、少しでも金があれば気楽に遊んでいれると思ったから、先生に無心したのです。
ところが女中の返事では宴会に出て先生は留守だったため、帰ったら渡して下さいと云って手紙を置いて来たとの事でした。私は手紙で頼んだ金を余り当てにはしていませんでしたから、そのままにして置いたのです。石田を殺してから逃げる旅費にするため欲しいと思ったのではありません。
ついでに申上げますが、大宮先生に私がこの手紙を出しさえしなければ、世間から気違いみたいに思われるような今度の事をしないで済んだだろうと思うと何とも残念です。
問 それは何故か。
答 どっちにしたって石田は殺すより仕方なかったので、石田を殺してしまうまでは、自分の身の振り方などはてんで頭にありませんでしたが、殺してしまってから、あの石田は死んでしまったのだな、自分も生きていれない、死ななければならぬのだと思い、死ぬのを厭とも思いませんでしたが、同時に先生の事を考え出し、昨日手紙さえ届けなかったらこの事件で先生が引合に出される事はないのに、手紙を届けたばかりにきっと警察に調べられてるのだ、迷惑がかかるに違いない、何としても申訳ないことをしたから一目会ってお詫びしたいと考えました。
もし先生の事を左様に考えなかったら、私はきっと「満左喜」の2階か物干で頸を吊って死んだのでしたが、先生の事を考えて外出する気になったばかりに、石田と別れるのが淋しいので、石田のシャツを着たりオチンチンを切ったり気違い染みた事をしてしまったので、そんな事で世間から変態のように云われるのが口惜しう御座います。
問 では犯行後、逃走した経路について述べよ。
答 5月18日午前8時頃、待合「満左喜」を出た時は50円くらい持っており、新宿伊勢丹の角で自動車を乗り捨て、新宿駅に行って円タクに乗り、上野の松坂屋前で下り、午前9時頃、付近の小野古着屋に行き、仕度を変えるため、着ていた白地玉結城の袷と銀鼠地ウズラ織合羽織とを13円50銭で売り、鼠色鱗飛模様単衣御召を5円で買い、店の次の間で着換え、小僧に頼んで木綿風呂敷を買って貰い、新聞紙包の牛刀をその風呂敷に包んでその店を出てから、松坂屋前の電車通りの下駄屋に行き、桐の駒下駄を1円45銭で買い、穿いていた表付の下駄をその店に預け、その店の世話で隣の電話を借りて待合「満左喜」の女中さんに「昼頃帰るから、それまで起さずに置いて下さい」という電話をかけると承知してくれたので、まだ判らないと安心しましたが、なお神田の万代館にいる大宮先生に電話をかけるところでしたが、「5分か10分でよいから会って下さい」と云い、万惣果物店の前で会う事になり、円タクに乗って行き、そこで先生に会い、また円タクで日本橋の木村屋喫茶店に行き、コーヒーやトーストを取って暫く休みましたが、私は先生を見ると申訳なく、涙が出て仕方がありませんでしたが、店が騒しくて詳しい話が出来ず「失礼な手紙を差上げて申訳がなかった」というお詫びだけ云い、昭和通りのそば屋で私だけ天丼を食べ、先生に「是非1時間くらいゆっくりして貰いたい」と云うと、先生は「それでは『夢の里』へ行こう」と云いましたが、「全然知らない旅館に行きましょう」と云って、それから円タクで大塚の方に行き、市電車庫付近の「みどり屋旅館」に行きました。
私は「みどり屋」で先生と会っていても、ただ泣けて仕方なく、先生には石田を殺した事など云わずにそれとなく「今後どんな事があっても貴下は私を金で買っただけの事だから、そう云う気持ちでいて下さい」という意味のことを繰返し「心から貴下を思っているから、私を恨まないでいて下さい」と云って泣いていました。
ところが先生は私の気持ちが判らないと見えて、情夫の事で謝っているのだと思ったらしく、今更そんな事は云わないでも判っている、この間からアパートを借りようと思って探しているがいいところがない、今日愈々(いよいよ)校長を辞めたので、今までに一番気持ちよくお前に会っているのだと云いました。
私は何も知らない先生の朗らかな気持ちを考え、一層申訳なく泣きましたが、久し振りで私と会った先生の気持ちを察して慰めるために、とにかく寝ましょうと云い、宿の人に布団を敷いて貰い、私は先生に知れない様、腹に巻いた褌を取り、シャツ、ズボンを脱ぎ、オチンコの紙包はそっと布団の下に入れ、先生と寝ました。
その時、先生は私に「変な話だがお前は少し臭い」と云いました。私は気持ちが少しも引き立たず、全く御義理で先生と関係し、その後、先生が入浴している間に元通り仕度し、勘定は先生から受取った10円で払い、午後1時頃「みどり屋」を出て円タクを拾い、新宿に行きましたが、途中、先生は今度25日に東京駅で会うと云って小石川の壱岐坂で下り、私は新橋6丁目で自動車を捨てました。
初めは先生に会ってから死のうと思っておりましたが、先生と別れてからの私は、どっちにしたって死ななければならないと漠然と考えてはいましたが、石田の大事なものを身に付けているため、安心した様な気持ちも起らず、もっと石田と一緒にいて石田を追想したり、何かしては楽しむため東京にいて、それから大阪へ行こうと考えておりました。
その時私が着ていたお召の単衣物はまだ時期が早くて似合いませぬし、上野で買った駒下駄はきつくて足が痛かったものですから、新橋中通の「あづまや」という古着屋でセルの単衣物と名古屋帯と帯上げを12円20銭で買い、脱いだ着物を紙包にして貰い、着物を着換えて出かけ、近所の下駄屋で総革草履を2円80銭で買って履き、駒下駄は紙箱に入れて貰ってブラ下げて出ました。
なお、その近所で2円50銭の眼鏡を買ってかけましたが、勿論、人目につかない様にするためでした。午後4時頃、新橋6丁目市電停留所の寿司屋に寄り、寿司を50銭取り少し食べ、残りを包んで貰い、ぶらぶら歩いて銀座のコロンバンという喫茶店に寄り、そこを出てから昭和通まで歩き、円タクで浜町公園に行き、そこのベンチに腰かけ、1時間ばかり考え込んでおりました。
幾ら考えてみても、結局、前と同じ様な事を考えるだけで、どうせ死ななければならぬが、大阪に行って生駒山から谷底へ飛び込んで死のうと思いました。
三原山などの話は聞いておりますが、行く道さえ知れず、生駒山なら遊びに行った事があって知っておりましたから、そこで死のうと思ったのです。
いずれにせよ、すぐ死ぬほどの勇気はまだなく、暫く石田の事を考えていたい様な気がしたので、今晩一晩東京で泊ろうと思い、公園前の喫茶店でコーヒーを飲みながら夕刊を見たところ、まだ変った記事がありませんから大丈夫だと思い、夜10時頃、浅草の上野屋という以前泊った事のある宿屋に行きました。行くとすぐさっと風呂に入りましたが、大事な紙包は風呂場へ持って来て置きました。
2階の部屋で1人寝ましたが、布団の中でその紙包を拡げ、石田のオチンコと睾丸を眺めており、少しそれをシャブッたり一寸当てて見たり、色々考えて少し泣いたりして、碌々寝られませんでした。
朝早く帳場の新聞を借りて見ると、私の若い時の写真や尾久の事が書いてありましたから、宿の者にこの新聞を見られては大変だと考え、布団の下に隠して置き、19日午前10時頃、勘定を払い、雨が降っていましたから下駄と洋傘とを借りて宿を出ました。
大阪へ行くとしても雨が降っているし、恰好がつかないから、夜行にしようと思い、浅草に行き松竹館に入り、お夏清十郎の活動を見て、午後2時頃、青バスで銀座に行き、御飯を食べようと思い、少し歩きましたが、恰好が悪かったため円タクで品川駅に行き、午後4時頃でしたか、大阪行の3等普通列車を買いました。
この汽車は6時19分で、まだ2時間もありましたから、駅の売店で新聞買い、汽車に乗ってから読む心算で荷物と一緒に包み、駅前の喫茶店で酒1本飲んで、空腹のためとても酔い、眠くなってしまいましたから、午後5時頃、近所の品川館という旅館に行き、湯に這入ってからビールを1本飲み、按摩を呼んで貰いました。按摩をして貰っている時、いい気持ちで転寝をしたところ、石田の夢を見たので、寝言でも云わなかったかどうか按摩に聞きましたが、何事もありませんでした。
按摩を帰してから御飯を食べ、夕刊を見ました。それまではそれほどに思っておりませんでしたが、高橋お伝だとか何とか大変なことを書きたてて、各駅に全部刑事が張り込んでいる事が書いてあったので、大変な事になった、もう生きてはいられないし、大阪へ行くどころではないから、気の毒だがこの宿屋で死のうと決心し、買った切符は番頭に頼んで金を取り戻して貰いました。
このまま宿屋にいれば警察から調べに来て、その晩のうちにも捕えられるから早く死にたいと思いましたが、欄間が低いため頸を吊ると足が届いてしまい、死ねそうもありませんから、捕えられるのを覚悟で午前1時まで起きておりました。
ところがその晩は警察から誰も来なかったので、部屋で死のうと思い、朝、女中に頼んでそれまでの勘定を全部払い、離れの部屋に移して貰いました。ここで頸を吊り、庭まで足を延ばせばきっと死ねると思いましたから、レターペーパーや万年筆を借りて大宮先生と黒川さんと死んだ石田さんとに宛てた遺書を3通書き、夜中に死ぬ心算でビール2本ばかり飲んでから寝ていると、その日午後4時頃、警察の人が来たので「阿部定は私です」と云って捕った次第です。
問 これらの品に覚えがあるか。
この時、予審判事は昭和11年押第721号の1乃至29を示す
答 1の腰紐は待合「満左喜」で石田の頸を締めるのに使った私の腰紐です。
2、3の桜紙は私が「満左喜」で使っていたものと同じものですから「さくら」の間にあったとすれば、私が片付け残したものかも知れませぬ。
4の陰毛は石田の陰部を切る時、一緒に切れたのを私が座敷へ取り落したものだと思います。
5の雑誌は「満左喜」にいた当時買って来て貰って読んでいたもので、石田を殺した後で枕元にこれを捨て置きました。
6の眼薬は石田の頸を締めて顔が赤くなった時、資生堂から買って来たものです。
7と9の浴衣と袢天は「満左喜」から借りて石田が使ったもので、石田を殺す時は裸で寝ていましたが、殺してからその2枚を着せて置きました。
8の敷布は石田が敷いていたもので、これに書いてある「定、吉、二人キリ」というのは私の書いた字です。
10の花札は「満左喜」から借りて石田と遊ぶのに使ったものです。11の都新聞は「満左喜」から借りてさくらの間に持って来て置いたもので、そのうちの1枚か2枚かは汚れ物を包んで便所に捨てました。
12の脱脂綿は使った覚えがありません。
13乃至15の汚れ物は汚いものを便所に捨てましたから、「満左喜」の便所から出たものとすれば、私が捨てたものと思います。
16の手洗の蓋は便所へ水を流した際、落したものです。
17乃至18の陰毛及睾丸は私が石田から切り取り、捕まるまで持っていたものに相違ありませぬ。
19の肉切庖丁は買ったもので、石田の局部を切り取ったり、名を石田の腕に彫り付ける時使ったものです。
20、21、22の衣類は石田のもので、「満左喜」から出る時、私が身に付けて持ち出したものです。
23の遺書は私が品川館で書いたものです。
24の御召の単衣は小野古着店で買い、先生と会った間、一時着ていたのです。26の名古屋帯、27の帯上げも同様です。
28の眼鏡は新橋で買い、品川館にいる時かけていたものです。
29の新聞紙は品川駅の売店で買ったものです。
問 被告が書いた石田宛の遺書に依ると、16日の晩、石田を締めた時、殺す考えがあった様にも思えるがどうか。
答 前の晩、咽喉を締める時は是非殺すという決心はなかったのですが、締めながら関係しているうち、とても可愛くなりギュウッと締めたので、詰まり殺してしまいたいほど可愛くなったのですから、石田が苦しそうなのを見て手を離したのです。
問 被告は今度の事件に付て現在どう考えているか。
答 警視庁にいる頃はまだ安心して嬉しい様な気持ちであり、石田の事を喋ることは嬉しかったし、夜になると石田の夢を見たいと思い、刑務所へ来た当座も、まだ石田の夢を見ると可愛い様な嬉しい様な気持ちがしておりましたが、一日一日と気持ちが変って来て、この頃はあんな事をしなければよかった、馬鹿馬鹿しい事をしたと後悔しております。
殊に殺さなかったらよかったが仕方がない、殺しても石田のものを取ったりシャツを着たりしなければよかったと思います。一番後悔していることは、あんなことさえしなければ、今頃は大宮先生と一緒になって幸福なのだがと思うことです。
しかし、大宮先生があるから石田の事を馬鹿馬鹿しいと思うのではないかと考えると、石田に申訳のない様な気もします。
ただ、今では成可(なるべ)く石田の事を忘れ様と骨折っております。従って、今後この事件の事は口にしたり、考えたりしたくないので、出来れば公判とか裁判とか大勢のところで色々の事を聞かれるより、御役所で然(しか)る可(べ)く相談して刑を定めて下さい。不服など云わず、心よくその刑を受ける心算です。そう云う意味で、弁護士はいらない様に思うのですが、ただ世間から私を色気違いの様に誤解されるのが一番残念で、この点、申開きするためにやはり弁護士を頼もうかと思います。
ですから最後にこの点について申述べさして頂きたいのですが、私が変態性欲者であるかどうかは、私の今までの事を調べて貰えばよく判ると思います。今までどんな男にも石田と同じ様な事をした訳ではありません。今までは自分を忘れて男と関係したことはなく、好きな男だと思い、金を貰わないで遊んだことも随分ありますが、それでも自分を忘れず、時と場合と考えて簡単に別れておりました。
例えば中川朝次郎さんにしても、寝た時にはいいが、顔や姿の悪いアラがよく判っており、同人と関係して自分が眠っている間に帰られ、今頃は家内を抱いているなと想像しても平気であったし、大阪で淫売当時知り合った八木幸次郎という人は、様子もいいし、表面、金離れもよかったし、かなり惚れ合っていましたが、金もないのに取りつくろって見栄をはる様子が目に付き、別れるのを何とも思いませんでした。
今まで私はそれくらい理性が勝って男に吃驚されたこともありました。
ところが石田だけは非点の打ちどころがなく、強いて云えば品がありませんが、却ってその粋なところを私が好いたので、全く身も心も惚れ込んでしまったのです。女として好きな男を好くのは当り前です。私の事は世間に判ったから可笑く騒がれるのですが、女が男のものを酷く好く様子をするのは世間にざらにあると思います。
早い話が女が刺身を好かなくとも、亭主が好けば、自然と好く様になり、亭主の留守に枕を抱えて寝たりする事はよくある事と思います。自分の好きな男の丹前の臭をかいで気持ちを悪くする様な女がありましょうか。好きな男が飲み残した湯呑の湯を呑んでも美味しいし、好きな男が噛んだものを口移しにして食べても美味しがる事もよく世間にあります。
芸者を落籍するのも、結局、自分の独占にしようとするからで、男に惚れた余り、今度の私がやった程度の事を思う女は世間にあるに違いないのですが、ただしないだけのものだと思います。もっとも女だって色々あり、恋愛本位では御飯が食べられないと思って物質本位の人もありますが、恋愛のため止むに止まれず、今度私のした様な事件になるのも色気違いばかりではありません。