第3回訊問
問 娼婦を廃めてから何をして暮して来たか。
答 その時から、女給したり、高等淫売したり、妾になったりして、昨年7月までは大体淫売生活をしておりましたが、その間には一時男から遠ざかって女中したり、田舎へ帰って親の世話したりした事もあります。
問 では被告が淫売生活をしておった時のことを詳しく述べよ。
答 丹波の篠山を逃げて神戸に住まってからは、吉井信子と名乗って2週間ばかり、カフェーの女給をしておりましたが、前借のこともあるし、小遣にも困りましたから、何とかして金が欲しいと思い、その店に来た客に「月100円の収入ある商売はないか」と聞いたところ、客が「よい商売がある。遊んでいて気が向いてから商売を始めろ」と云いました。
その男は高等淫売の客引をしている人だったのです。大体その見当はついていましたから、今更堅気になっても追付きませんから、私もその気になってその家へ行き、2月ばかりブラブラ静養しながら高等淫売を始めました。
ところが、その主人は私の稼ぎ高から今までの費用を採り、なお、頭を刎(は)ねるので、仕打がヒドイから3月くらいの後、商売を止め、昭和7年、28歳の時、今度は大阪に移って同じ商売をしましたが、間もなく淫売を止め、1年間ばかり妾をしていました。
その間、相手は3人変りましたが、毎月100円から50〜60円の手当を貰っていました。この時から情事に快感が湧き、一人寝は淋しくてなりませんでした。妾では旦那の来るのが月5〜6度くらいなので、淫売当時の好きな客2人ばかりとも時々関係しておりました。
金も容易(たやす)く入ったし、暇もあったのですから、遊蕩的になり、暇に任せて麻雀したり、宝塚へ遊びに行ったり、道頓堀へ出かけたりして、浮かれておりました。賭博の事で警察に検挙されたのはこの頃のことです。
そこで謹慎する気になり、小遣いも400円ありましたから、妾を止め、1人で大阪の住吉アパートを借り、本などを読んで1月半くらい静かに生活していましたが、どうしても男に遠ざかると気がイライラするので、当時医者に診察して貰った事がありました。
ところが医者は「別に異状はない、左様な事は人間として当然ある事だから、独身より真面目な夫婦生活をするがよい、また、難かしい精神修養の本を読んで気分を転換しなさい」と云われました。
そのうち、また遊びに出かけて、麻雀などを始め、好きな男が出来ましたから、28歳の秋頃、大阪で横浜の知人に会って、両親が私を心配している事を聞き、急に帰りたくなって、冬まで3月ばかり田舎の両親の下に帰り、この時、生れて始めて孝行をしました。
親には大阪でいい人に世話になっていると嘘を云って安心させ、両親の肩を揉むやら、新聞を読んでやるやら、食物の料理をしてやるやら、出来るだけ親孝行をしたので、親は喜んで「もう満足だから死んでもいい」とまで云ってくれました。
するとその頃、田舎へ篠山から3人も私を探しに来たので、親許にいられなくなり、また大阪に帰り、アパートに住まっておりましたが、昭和8年1月、29歳の時、突然母が死んだという電報でしたが、ちょうど麻雀に行って留守だったため、3通も電報を貰ってしまい、怨まれたので金だけ送って置き、荷物を纏め、大阪を引き払って母の初7日の時に田舎に帰り、墓参しました。
2週間くらいおりましたが、篠山の事があるし、以前、田舎で噂に上ったことがあって、人に顔が合せられない気がするので、窮屈ですから東京へ来て、三の輪でやはり吉井昌子と云って高等淫売をしました。
そのうち29歳の10月頃、日本橋区室町の袋物商、年令37〜38歳くらいの中川朝次郎の妾になりましたが、中川さんは私も好きでありましたから、毎日来て貰う約束で、私は神田新銀町のおでんやの2階から日本橋区本石町の生花師匠の2階に間借し、毎月60円くらい貰っていました。
すると30歳の正月、父が病気だと云って知らせがあったので、田舎へ帰り、10日間くらい何も忘れて熱心に看病しましたが、今でもこの時だけは本当の親孝行をしたと思っています。父は死ぬ頃、お前の世話になるとは思わなかったと涙を流して喜んでくれ、1月26日に死亡しました。
私は父の形見として金300円分けて貰い、間もなく東京へ帰り、やはり中川さんの妾をしておりました。ちょうどその頃、用事があって横浜に行ったところ、昔の友達に会い、稲葉の娘が死んだことを聞きましたが、稲葉の娘は仲よし友達でありましたから、稲葉方へお墓参りに行きましたので、一旦絶縁している稲葉方と、この時からまた往来する様になり、当時、稲葉方の暮しを見兼ねて、自分の指輪を入質して150円くれてやりました。
私が30歳の9月頃、中川さんが病気になり、色々私の事を心配してくれるので、申訳なくなりましたから、相談づくで別れてしまい、それから稲葉方へ行き、半月ばかりブラブラ遊んでおりましたが、1人でいることは淋しい上に、別に手に職がある訳でもありませんから、また横浜市中区富士見町の「山田」という淫売屋で高等淫売を始めましたが、その縁で、一昨年の暮頃、政友会の院外団という年頃の笠原喜之助の妾になりました。
ところが笠原は放埒で、碌な手当もせず、愛情もなく、私を獣扱いにし、別れ様(よう)とすると平身低頭して哀願するという品性下劣の男で、すぐ嫌になりました。それ故、昔馴染の中川さんが恋しくなり、昨年1月、電話で中川さんを呼出し、浅草の上州屋で同宿したことがありました。
笠原とは何とかして別れ様と思い、逃げ出すと、田舎の坂戸町まで探し歩き、稲葉へお前が俺の妾になっていることを話すとか、世帯を持った費用を全部返せとか、殺すとか云って脅すので、困り抜き、到々(とうとう)昨年1月末、名古屋へ逃げ、それ以来、笠原とは縁を切ってしまいました。
名古屋で東区千種町の「寿」という小料理屋に、田中加代という偽名で女中に這入りましたが、ここは女中は私1人だけで、極(ご)く真面目な店でした。
ところが、昨年4月末のある晩、名前や身分は後で判ったのですが、名古屋市会議員中京商業の校長先生である大宮五郎さんが宴会の帰りだと云い、他の料理屋の女中を連れて「寿」へ来ました。
大宮五郎先生のその女中に対する態度が誠に紳士的であり、どことなくキリッとしていたので、初めて会ったのですが、立派な人だと惚れてしまいました。
4〜5日後、今度は先生1人でお出になり、水菓子などを食べながら私の身の上話を聞きたがるものですから、私は哀れっぽい調子で同情を惹く様に「東京の生れだが9つになる女の子を残されて亭主に死なれたから、子供を育てるためこんなことをしている」と出鱈目を云ったところ、先生は「子供に何か買ってやれ」と云って10円くれたので、いい人だと益々惚れてしまいました。
先生は4〜5日後、また1人で和服で来ましたから、自分に気があるに違いないと思い、聞れるままに子供の話などしながら先生の膝にもたれ俯して泣いている様な態度をすると、先生は「そんなところへ手をやってはいけない、男だから変な気持ちになる。向こうへ行って坐っておれ、人が来るといけない」と云いましたから、私はここだと思い、色っぽい様子をして、なお先生にもたれかかると、先生は私を抱きしめましたから、そのまま先生を倒して関係してしまいました。
その晩、先生は私に「将来面倒を見てやってもよいから、真面目にしておれ」と云いました。
その2〜3日後、また先生が「壽」に来たので、「ゆっくりしたところでお会いしたい」と云うと、先生は「それでは舞鶴公園付近の松川旅館に行こう」と云うので、店には一寸外出すると告げて、その旅館に行き、先生と一緒になりました。
その後は「壽」には帰らず、そのまま付近の「福住」という小料理屋に住み込み働き、その頃先生と松川で1回関係しましたが、何となく名古屋が飽きたので、昨年6月、先生には「子供が死んだから東京に帰るが、松川旅館気付で手紙を出すから」と云い、先生から50円貰って東京へ帰り、当時、下谷にいた稲葉方に行って、10日ばかりブラブラ遊んでおったところが、元私が妾をした笠原が私を結婚詐欺だと云って告訴したとの事で、稲葉方へ刑事が調べに来ましたから、五月蝿(うるさ)く感じ、以前東京で淫売をしていた時知り合いになった浜町の淫売屋木村博方に行き、やはり田中加代と偽名して、客席では田中きみと名乗って高等淫売し、大宮先生には木村方にいるから来て下さいという手紙を出して置きました。
すると昨年6月中旬頃、先生が木村方に私を訪ねて来ましたから、先生には「木村方は姉の家だ」と嘘を云い、その日は先生と品川の「夢の里」へ行き、2時間くらい遊び、浅草の活動見物して夕食してから、その晩、先生は名古屋へ帰りましたが、この時30円貰いました。
その後も私は木村方におりましたが、そのうち主人と関係が出来たので、木村の内縁の妻・金子静が焼餅をやき、家の中がごてごて初まりました。
木村博は大変な道楽者で、その先妻の大橋秀と同棲しておった頃、今の金子と懇意となったところ、先妻の秀子さんはそれなら婿にやると云って、亭主と金子とを同居させ、自分は近所に別居していたのです。
今度私と木村と関係が出来、ごてごてしたところ、また先妻の秀さんが仲に立って2人を秀さんの2階に同居させてくれ、私はその時から淫売を止めました。
ところが、昨年7月中旬頃夕方、金子静が大宮先生が来ていると私を迎えに来ましたから、静さんに家に行くと暑い、座敷に先生がおり、聞くともう3時間もいるとのことでした。私は嬉しく、早速支度して、先生と東京駅から汽車で熱海に行き「玉の井」旅館に泊りましたが、先生は「木村の内縁から色々話を聞いたが、お前は淫売をしても人の亭主を取っても驚かない。初めからいい事をしている女ではないと思っているが、何とか救ってやりたいのだから、是非真面目になれ、俺は名前こそ話さないが、お前の将来は必ず引受けてやる」と夜通し意見してくれました。
初め私の先生に対する気持ちは一時の浮気くらいの程度でありました。それに先生は名前や職業を絶対に打ち明けず、田村正雄と出鱈目を云い、私には「お前の居所さえ知らすれば、どこまでも面倒を見てやる」と云うが、洋服まで自分で始末し、名前が判らぬ様、気を付けており、非常な潔癖性で寝間も面白くなかったので、私は頼りなく思っていたのですが、今度も態々(わざわざ)私を尋ねて来てくれたのだし、万事に親切で、私も会うと誠心誠意私をよくしようと意見してくれるので、この時シミジミ有り難くなり、先生に動かされて将来は真面目になって先生に頼ろうと決心し、翌日、沼津まで先生を送り、涙で別れました。
この時、先生から30円貰いました。私はそれ以来、淫売生活から全然足を洗ってしまい、東京へ帰っても木村方へは行かず、稲葉方の世話になり、煙草も断とうと思って近所の御祖師様へお百度参りをし、禁煙のお願いをかけました。
大宮先生とは昨年8月、名古屋と東京などで10回くらい会い、本年5月18日、石田吉蔵を殺した直後、東京で会ったのが最後です。
問 その後、他の男との関係はなかったか。
答 大宮先生だけでは物足らなかったから、元妾をした中川朝次郎とも前後6回、浅草の上州屋に泊って関係しました。
問 では大宮五郎との関係を続いて申述べよ。
答 昨年7月中旬、大宮先生と別れ、東京へ帰ってから稲葉方におりましたが、半月ほど経つと先生に会いたくなったから、先生は胸に丸八という徽章を付けており、その徽章は名古屋市会議員または市役所の役人印であることを知っておりましたから、調べれば判ると思い、8月中旬、名古屋へ行きました。駅前の清駒旅館に寄って新聞を見ると「大宮市議渡米」という見出しで先生の写真が出ていましたから、この時初めて名前や職業を知り嬉しくなり、早速、先生に電話をかけ東築港の南陽館で先生と会いました。
先生は余程困ったらしく打萎れており、「どうして名前を知ったか」と云いましたから、「新聞を見た」と云うと、「そうか」とうなづき「俺は学校長であるだけに、お前との関係が世間に知れると生きてはいられない。ピストルだ、俺を生かすも殺すもお前の心一つだ、将来代議士になる心算だから、それまで温和しくしていてくれ、代議士になったら堂々と尋ねて来い」と云いましたから、私は「先生を知っているのは私だけで、他人に云ってはなし、御迷惑はかけない」と云いました。
先生は「今日はとても忙しいから、すぐ東京へ帰ってくれ、お前が名古屋にいるというだけでも道が真っすぐ歩けない」と云い、その時私は先生と関係がしたくて側に寄ったのですが、「今日はこれで別れ様、13日には東京へ行く」と云い、元気がありませんでしたから、小遣50円を貰っただけでそのまま東京へ帰りました。
先生が8月13日、渡米のため上京しましたので、その日「夢の里」で会いましたが、その後、私はずっと稲葉方に世話になっており、10月下旬頃、先生が帰国することを知っておりましたから、先廻りして名古屋に待っておりましたが、先生は帰途東京に滞在したしていたため、私は1人で2週間も待ち呆けてしまい、活動などを見て遊び暮したので、300円以上も小遣を費いました。
11月11日、漸くの思いで先生に会いましたが、忙しいと云い、1時間くらいで別れ、先生から100円頂きました。その時の約束により、11月16日、豊橋で会い、1日ゆっくりし50円貰って東京に帰り、間もなく大阪で会った時、「身体に腫物が出来て困る」と云ったら、先生は「過去の生活が悪いからだ、梅毒だろうから草津へ湯治に行け」と云い、250円くれたので、昨年11月下旬から本年1月10日頃まで草津に行っておりました。
草津湯治中、一度先生が来ました。先生は私が煙草を吸わなくなったのを知って驚いておりました。先生は草津に1晩泊りましたが、布団2つ敷き、私が寄っても「今日は疲れているから」と云い、関係せず却って私に夫婦や女の道を話して聞かせ、「夫婦は生活本意で、色事は夫婦の交りのため、第2の問題である。男女間でも色事は第2でなければならぬ。心と心と触れ合っていれば、それで満足しなければならぬ。俺はお前を見ればそれで安心するのだ、お前は手を握ってもすぐ眼の色を変えるくらいで、色情が強過ぎる。男女一緒に寝ていても自制出来るくらい修養せねばならぬ。俺は関係しないと思えば絶対関係しない」と云っており、私としては実に詰まらないと思いましたが、また、意思の強い立派な人だと思いました。
翌日一緒に伊香保に行き泊り、先生はその翌日昼頃、帰りました。私に100円小遣を置いて行きました。しかし、伊香保で先生から「お前はどことなく温和しくなり、口の利き方も変った」と云われた時は非常に嬉しく思い、今でも忘れられません。
そして私が草津を引き上げて後、本年1月中、京都で一度先生に会いました。先生は以前からも云っておりましたが、草津や京都で会った時、「お前は真面目になって、何にか商売を始めた方がいい、今年の暮から、おでん屋のような小料理屋を始める様に、今からどこかへ奉公して料理を見習ったらどうか」と云ってくれたので、私もその気になり、草津から東京へ帰り、荏原区上神明町の姉トク方や下谷の稲葉方へおりましたが、本年2月1日、新宿の紹介業「日の出屋」へ「儲けは少くともよいから、真面目なところへ世話して下さい」と申込み、東京市中野区新井町538、割烹店「吉田屋」事石田吉蔵当42年方の女中となりました。
大宮先生には姉の今尾トク方に私のいるところを知らせて置いてと云って置きましたので、本年3月3日、先生は上京して姉に聞き、電話で私に東京駅に来いと云って来ましたから、飛立つ思いで吉田屋の忙しいのにも拘らず、一時暇を貰い、その晩先生と新宿の明治屋に泊りました。
その時先生は頭がグリグリに刈っており、「今度3月ばかり東京に滞在し、青年の気分で勉強する心算だが、その間はお前と関係はしない。その代り、勉強が済んだら塩原へ連れて行く」と云い、私は「貴男の様に冷淡では私がやり切れない、1月も2月も男に接しないではとても堪らない」と云うと、先生は私に色男があるものと思い込んでいるらしく、それを信用しないで、「お前は現在俺の独専(独占)物ではないのだから、何をしてもよいが、商売でも始めたら真面目にならなければならぬ、その時、色男があったら俺に話せ、人物試験をした上で、よければ仲介して夫婦にしてやる、そして妹だと思って死んでも世話する」と云いました。その時先生は私に50円くれて帰りました。
私は情交では先生1人で満足しませんでしたが、その真実味に感謝して、今でも忘れる事が出来ませぬ。石田に熱中した時、何故、先生を思い出さなかったのかととにかくその先生の話を聞き、これから時々先生と会えるし、塩原へ行くということが楽しみで、吉田屋に泊ってから石鹸箱や化粧品を買ってその準備をしておりましたが、その道具を今度刑務所で使うとは何という廻り合せだろうと思っています。
私が吉田屋の女中になってから、段々主人の石田と懇意になり関係が出来、4月23日、示し合せて2人で待合に泊り込む様な仲になってしまってからでも、大宮先生と前後4回会いました。
一度は4月29日、石田と2人、多摩川待合「田川」に泊っておった時、金に困ったので、私が名古屋に行き、旅館に1泊し、翌日「南陽館」で先生に会い、100円と旅費を貰い、来月5日、東京で会う約束しており、次は5月5日、石田と尾久の待合「満左喜」に帰っていた時、新宿の明治屋旅館で会い、120円貰い、次は5月15日、やはり石田と尾久の待合「満左喜」に泊っている時、東京駅に行って先生に会い、銀座で食事し、品川の「夢の里」で休息し、50円貰い、最後は5月18日、石田を殺してから須田町の「万惣」の前で先生に会い、日本橋のそば屋に寄り、大塚の旅館「緑屋」に行き、2時間ばかり休息して別れました。
しかし、この間先生と関係したのは「夢の里」と「緑屋」に行った時の2回だけでした。先生は会うといつも私の将来のことを心配して、真面目になれという様な話ばかりしてくれました。