第7回訊問
問 被告は浅草辺で遊びに行っていた時代、不良な男と関係があったか。
答 ありました。私が学生に処女を奪われてから6ケ月くらい経った時、私が16の年と思います。当時神田でも不良であった近所の乾物屋の息子と懇意になり、毎日その家に行って2階で関係したり、一度宿屋に泊った事もありました。その男の名は土屋喜平と云い、その頃18〜19でありました。
私が17の春、坂戸に越してからも、たまには東京に来て土屋と会い、横浜に行って稲葉方に同居していた時や芸者に出てからも、面白くない事があると東京へ来て土屋と会いました。そんなことが2〜3度あったと思います。私が不良少女時代、土屋の外にも本間こと国井という不良とも2〜3回関係したことがあります。
問 その当時、被告は相手の男と夫婦になる心算があったか。
答 土屋は不良の札付きで、手に職がありませんでしたから、食って行かれないことは判っていたので、夫婦になるなどは考えておらず、恋愛の遊戯でした。
問 被告は16歳の頃芸者になろうとしたことがあるか。
答 それは兄の新太郎が、私を300円で芸者にしようとしたのです。当時、私は虚栄心が強く、白粉を付けてクチャクチャしていたものですから、兄やお父さんに承知させるから芸者になれと私を煽て、兄の指図で親戚筋の家へ逃げて行ったことがありましたが、夜になって親が恋しくて逃げて帰りました。
問 被告が坂戸に住していた頃、新聞記者の様な男と関係したこともあるのか。
答 私が当時17歳で浮気っぽかったものですから、駅前の林家という西洋料理店の御内儀さんがいい人を世話すると云い、会わされたのがその新聞記者をしている男で、東京へ連れて行くとか何とか甘いことを云って、ついだまされ、一緒に川越へ行って2〜3日旅館へ泊っていたら、見付かって帰った事がありました。
問 被告は大阪で「朝日席」という貸座敷でも働いたことがあるか。
答 あります。大正15年6月から、半年くらい働いており、そこから「徳栄楼」に変ったのです。
問 「朝日席」を逃げたことがあるか。
答 逃げたという訳ではなく、客と遊びに出て、帰りにくくなり、帰るのが遅れたのです。
問 被告が信州飯田町の「三河屋」で芸者をしていた頃、病気をしたことがあるか。
答 2度くらいヒステリーが起きて、頭が少し変になり、高い櫛やカンザシを折ったり、見舞に来た客に時計をぶっ付けたりしたことがありました。そのために注射をして貰ったかどうか覚えておりません。
問 それ以前、度々注射したことがあるか。
答 一度も注射したことがありませんでした。しかし、その後、方々で働いた頃、カルシウム注射とか606号(梅毒治療薬サルバルサンの通称)とか水銀注射(梅毒の治療薬)をしたことは度々あります。
問 本年3月、資生堂で治淋剤(淋病の治療薬)を買ったか。
答 資生堂で治淋剤を買ったのは、今年3月ではなく昨年の夏です。
問 その薬は何に使ったか。
答 それは稲葉正武から頼まれて買ってやったのです。私が使ったのではありません。
問 被告は自分の梅毒について何か薬を飲んでいたか。
答 中川の妾をしていた頃は掃毒丸を飲んでおりましたが、私の病気は外に現われませんから、その後は思出すと飲むくらいのものでした。昨年の暮から今年の正月にかけて草津に行っていた頃は、毎日その薬を飲んでおりました。
問 石田と待合を泊り歩いた当時、最初のうち石田は帰宅したそうな様子をしなかったか。
答 石田の腹の中ではどう思っていたか知りませんが、私に対しては帰りたい様子を見せませんでした。寧(むし)ろ最初は、私から帰ろうとしたのですが、石田に惹かれて延々になったのです。当時は自分から帰りたいという石田ではなかったし、私としても拝み倒しこんでいさせる気分は嫌です。
問 本年5月17日に被告は「満左喜」でどれほど酒を飲んだか。
答 全然覚えておりませぬ。
問 「満左喜」の女中は、その日から石田を殺した当時までに酒を4本とビール2本を出したと述べるがどうか。
答 ビール2本は覚えております。酒はそれくらいでありました。
問 その酒やビールをどの様に飲んだか。
答 17日の朝は石田はもう飲みませんでしたから、私だけ前の晩に残った酒を飲み、夜9時頃、買物から帰った後、ビール1本飲んでから酒をチビチビ飲んで、石田を殺すときまでにもし酒が4本だったとすれば、3本半頃、私1人で飲んだ訳です。1本には1合入っているのです。
石田を殺してから飲み残りの1本の酒をラッパ飲にして、なお自分で様子見ながらビールを1本外から持って来てコップで飲みました。
問 被告は酒に強いか。
答 私は1合くらい飲むといい気持ちになって、それ以上飲みたくありませんが、酒は嫌いな方ではなく、男と一緒ならチビチビ1日20本くらい飲みます。酒を飲んでいい気持ちになると、情慾が出て男が欲しくなり、何となく嬉しい気分になります。
問 このお守は石田が頸にかけていたものか。
この時、予審判事は昭和11年押第721号の30を示す
答 これは違います。石田のは布の袋に入れてあり、石田吉蔵と書いてあるので、私が稲葉方の火鉢の抽斗(引き出し)に入れて置きましたから、そこを探せばあると思います。