日本初の個人投資家が教える「起業の教科書」

 私が作った外資の日本法人は、当初、なかなかうまくいかず、8億円もの赤字を出してしまいました。しかし、日米貿易摩擦 という追い風が吹いたことも手伝って、年間売上げ100億円まで育て上げることに成功したのです。
 私はサラリーマン人生では考えられないほど大きな額の報酬を得て、自由な立場となりました。 ちょうどその頃、私はアメリカのエンジェルと知り合い、自分自身もエンジェルになって、若い起業家を支援したいと考えました。

第1節 お金だけが資本ではない

 資本はお金ばかりでなく、経験や人脈も、事業に生かせれば資本となる、との考えはウィルフに聞いていました。
 
 その上で、私の5%エクィティをどうやってお金に換えることができるかと考えると、新会社の事業を成功させて、会社の価値を高めることしかないことは明らかでした。会社の価値は売上げの規模をあげ、利益を出すことによってのみ高められます。

 そのためには営業力がものをいうことはわかりますが、具体的には新会社の商品、すなわちASIC(応用特定集積回路)の設計ソフトが国内他社の商品に比べて、差別的強みがあることをお客様に知ってもらうことです。それは口で説明してもわかってもらえません。

 そこで、東京・赤坂のど真ん中に技術センターを開きました。幸い創業時に親会社のCFO(チーフファイナンシャルオフィサー、財務担当役員)が中心となって資金を集めてくれていたので、オフィスを賃借りしたり、間仕切りをしたり、コンピュータを設置する費用には事欠きませんでした。

 技術センターを東京のど真ん中に作ったメリットはたちまち功を奏しました。ICの設計者はたいてい工場に配置されており、赤坂に来る機会など滅多になかったので、喜んで見学に来てくれました。最新のコンピュータに手を触れ、そこに入っているソフトウェアを操作しながら、ICを設計できるのは技術者冥利に尽きるというものです。

 ましてや、ICを設計し終わって、打ち上げと称する宴会を赤坂の居酒屋で開けば、いやが上にも盛り上がろうというものです。設計には数日から2週間程度かかるので、毎日赤坂に出勤するというステータスはとても魅力溢れるものだったに違いありません。

 赤坂といえば、当時OLの憧れの勤務地でもありました。お客様である設計者が技術センターに来れば、工場の職場とは一味違う魅力的なOLにも会えるという2重の楽しみがあったわけです。
  
 この仕組みは目的ではなかったものの、結果としては技術センターの魅力の1つとなったことは事実です。マーケティングというのは商品や技術の優秀さだけではなく、それを取り巻く環境を整えるということでもあるのを学びました。

 技術センターが活況を呈すると、会社全体が元気になりました。初めは設計環境だけに興味を持った会社から、実用化に入るICの注文が入り始めます。通信とコンピュータを事業とする会社のほとんどから注文が取れたといっても過言ではありません。

第2節 8億円の赤字を帳消しに

 創業期の起業家(アントレプレナー)は社長兼担当者ですから、すべてを自分でこなさなければなりません。私は大企業時代にもどちらかといえばハンズオン型の経営スタイルが好きで、人任せにはしないほうでした。起業経験をもたない私にはすべてのことが初めてだったので、要領を得ないまま、まずLSIロジック日本法人の理念を書き出してみました。

 また、これだけは全社員に守ってもらいたいという行動規範もあわせてA4版1ページにまとめました。資金は十分に用意されていましたから、直ちに営業部隊と技術支援部隊を組織することにして、採用面接のときにこれらのことを十分理解してもらった上で採用することにしました。

 いわゆる中途採用ばかりですから、チーム作りを心がけ、採用が一段落したところで、1泊の研修旅行に出かけました。

 夜の宴会で、社内では社長とか部長とかいう呼称はなくし、すべてさん付けで呼ぶことにしようと提案しました。みんな平等との概念を持ち込もうとしたのですが、これはなかなか定着せず、社長、部長の呼称は最後までついて回りました。

 さて、起業家にとって、経験から来る助言は資金と同様に貴重な支援です。資金だけの支援では大八車の片輪を回転させるようなもので、1カ所でぐるぐる回転してしまい、前進はしません。経験から来る助言とあいまって初めて前に進むのです。

 しかし、エンジェルの得がたい1985年当時にはこのような支援を望むことはとうてい無理でしたから、日本での起業の難しさを後になって理解できただけで、当時はやみくもに顧客を説得し、営業マンの尻を叩くのが精一杯でした。

 技術の優位性、正確さはなかなか理解してもらえず、独立するときに妻の言った「どこの馬の骨かわからない会社の社長より、大企業の部長のほうがましなのでは?」との言葉が身に染みたのもこの頃です。

 そんな苦境が続くときに、以前の会社で懇意にしていただいた、松下電器の部長を訪問しました。

 「今度LSIロジックに転職しました。正確なシミュレーションでASICを設計できます。ぜひお使いいただけませんか」
 部長「あんたがやることやったら間違いないやろ」

 この一言には涙が出るほどありがたい思いでした。この部長さんは大学の先輩でもあり、名誉にかけて、高品質のものを作り上げました。採用1番目の製品は見事に仕様を満足し、「こんなことは初めてや。えらいもの考えよったな」と感心されました。

 松下電器は、他社によるビデオ撮影機器の独占状態を突き崩したいという作戦を、当社の技術を使って展開してくれました。そのお陰で売上げが急激に伸び、結果としてはそのライバル会社からも注文が入り始めました(ちなみに松下電器はほぼ10年後の1996年、アトランタオリンピックで使用されるプロフェッショナルなビデオ機器一式を受注し、宿願を果たしました。その機器には当社のICがふんだんに使われたのです)。

 こうして、次々と受注が舞い込み、業績はうなぎのぼりとなっていったのでした。

 しかし、ここまで来るのに3年かかり、ウィルフからは「8億円も赤字を出してどうするんだ」と詰め寄られたこともありましたから、感無量でした。今にして思えば、ウィルフの辛抱強さは私を口説いた3年間に養われたのではないか、と思われます。

 ハイリスク・ハイリターンを地で行った日本法人の起業は、このようにして実を結び始めたのです。そして8億円の赤字はまもなく帳消しになりました。

第3節 日米貿易摩擦が追い風となる

 この間に起こった日米貿易摩擦は会社にとって有利に働きました。1986年、日米半導体協定が締結されます。

 日本製のDRAM(半導体メモリー)がアメリカ製に比べて安すぎるということで、アメリカ半導体工業協会(SIA)が日本製メモリのダンピングを米政府に提訴しましたが、それでも日本からの輸出は増え続け、いらだった米政府が「もっとアメリカ製半導体を買え」と日本側に要求したのです。
 
 日米半導体協定は、外資系の日本市場におけるシェアを高めるために結ばれたもので、その一環として、日米両政府と日米半導体業界が協力し、いろいろなプログラムを考案しました。

 その1つとして、外資系が日本市場に本気で取り組んでいる証拠を、通産省(現在の経済産業省)に提出させられたのです。
 顧客訪問の回数、顧客に採用された商品の種類と納入実績、品質管理の改善結果(クレームの頻度と対策のスピード)、日本の顧客のために開発した新製品の数などを月報で提出するのです。

 それは以前の会社で実施していた月報制度と似ているので、お手の物でした。当社の月報は毎月ほぼ満点で、会社としての信用が高まるのがわかりました。顧客の信頼を得るのに、日米貿易摩擦が役立つとは誰も考えなかったことです。

 他社では役所仕事の手伝いだと考えて、まじめに取り組まないところもあったようですが、逆の発想で取り組んだ結果は、顧客にも評判がよかったのです。

 地道な努力の積み上げによって、ソニーのゲーム機プレイステーションの第1世代に採用が決まりました。その分野での売上げが急増し、当社の業績はみるみる伸び、親会社も大いに増益増収が見えてきたところで、私は退職することにしました。

 もともとウィルフから10年の約束で引き受けた仕事でしたから、業績も上がることが見えたことだし、年間売上げ100億を達成する寸前で退職したのです。会社はその後も増収を続けて一時は300億円に手が届くところまでいったようです。

第4節 シリコンバレーのエンジェルと知り合う

 私が退職するのと時を同じくして、親会社は日本法人の株主が保有する株式をすべて買い取り、100%子会社とすることを決めたので、私が持っていた株式はすべて売り渡し、それは大きな資産となりました。形の上では退職金にしてもらえたので、課税の上でも有利な扱いとなりました。
 
 その上、親会社のストックオプションと、持ち株制度で10年間に買い貯めてあった株式とあわせたので、手にしたキャピタルゲインは日本企業ではとても考えられない資産価値でした。その額は私が転職したときにもらったと喧伝された6億円という額を上回るものでした。

 このような報酬が得られたのはウィルフとの交友に端を発し、親会社の同僚、日本法人の役員仲間と社員、そして何よりも会社を引き立ててくださった顧客企業のお陰です。
 私が当時一流企業といわれた会社の役員の椅子を目の前にして転職するというリスクを冒して、日本では名も知られない外資系企業に身を投じたリスクが大きなリターンとなったのも、これら周りの人たちの支援があったからこそ実現したのです。

 10年間身を粉にして(といえば大げさですが)冒したリスクと努力に対するリターンとして、当然の報酬ということもできるでしょう。

 しかし、多くの人たちから受けた支援に対するお返しを何らかの形でしなければ、という気持ちも強く持っていました。アメリカではこのような成功は周りからの支援の結果と考えて、多くの起業家がエンジェルになることを選択すると見聞きしていました。

 しかし、エンジェルはどのようにして社会に貢献するのか、皆目、見当もつきませんでした。

 そこで、とりあえず、半導体関連の相談事に応じる、コンサルタントとして看板を上げました。その一方で、未上場企業に投資する日米の投資ファンドと付き合うことにしました。

 特にシリコンバレーで創業期のベンチャー企業に投資するテックファームは友人のゴードン・キャンベルが社長をしており、半導体専門の投資ファンドとして業界に知られていました。ゴードンはいわゆるシリアル・アントレプレナー(次々と起業して成功する起業家)です。その華麗な経歴を簡単に紹介しましょう。

 ●モトローラ半導体部門から独立・EEPROM(電気的に書き換え可能な読み出し専用メモリ)製造
 ●チップス&テクノロジーズ社を創業・半導体生産を外部委託するファブレス半導体企業として株式公開・スーパーエンジェル(後述)になってのジェネラルパートナーとなる

 半導体が専門の私はここに100万ドル出資することにしました。
 ファンドへ出資した主な目的は、ベンチャーキャピタルがどのように創業期のベンチャー企業を成功に導くのか、その過程を勉強することにありました。

 投資後3年間は、年1回投資先の社長を招いて、ビジネスモデル、ビジネスプラン、製品、技術のデモなどをプレゼンテーションさせ、それを出資者に公開しました。

 「ゴードン、出資者は投資先の内容を知ることはできるの?」
 ゴードン「もちろんさ。1年に1度投資先の社長に事業の進展状況をプレゼンさせるよ」
 「私もエンジェルになってみたい。ぜひ指導してほしい」
 ゴードン「シリコンバレーのエンジェルたちに会う機会もあるよ」

 このような機会を通して、シリコンバレーのエンジェルたちと知り合い、その活動を見聞きすることができたのは、私のその後の人生に大きな影響を与えたといえます。

 1999年にインターナショナル・エンジェル・インベスターズ(IAI)というエンジェルの団体を立ち上げたハル・ニスレーを紹介してくれたのは、以前同じ釜の飯を食べたこともある黒澤篤(アレックス・クロサワ)さんです。クロサワさんはIAIの役員で極東担当でした。

 彼は訪日の際、私を訪ねて来ました。そして、

 クロサワ「八幡さん、私とエンジェル活動をしませんか」
 「実は私も引退を機会にエンジェルになろうと考えていたのです」
 クロサワ「それはちょうどいい機会でした。ハル・ニスレーがIAIという組織を立ち上げ、世界各地に支部を作ろうとしているのです。一度ハルに会ってくださいよ。面白い人物です」
 「それは面白い。ぜひ紹介してください」

 クロサワさんとはもう少し後になってStart-up101という会社を立ち上げ、パートナーとしてシリコンバレーに小型のエンジェルファンドを組成しました。クロサワさんと私がそれぞれの自己資金をベンチャーの創業期に投資したのです。

 そのために私は頻繁にシリコンバレーと東京を往復していましたから、次の出張の機会にハルと会いました。そのときの話が、本書まえがきの冒頭に書いた「誰かが成功すればハッピーだよ」との会話になったわけです。

 ハル「アレックスに聞いたけど、君はIAIの日本支部を作りたいそうだね」
 「そのつもりですが、具体的にはどうすればいいですか」
 ハル「まず設立のビジョンを共有してほしい。その上でチャーターメンバー(発起人)を募って定款と組織を決めるのさ」
 「わかりました。それはアレックスから聞いています。本部は何をしてくれるのですか」
 ハル「できるだけ早くキックオフセミナーを開こう。基調講演と創業したての起業家をシリコンバレーから連れてくるよ」
 「それはありがたい。集客は我々がやりましょう。会場の手配もさっそくしておきます」

第5節 エンジェル団体旗揚げ

 1999年12月、早稲田大学教授・松田修一、富士ゼロックス情報システム社長・上谷達也、テクノベンチャー会長・鮎川純太、KSP専務・馬場昭男、監査法人トーマツ公認会計士・北地達明、日本S&T社長・西澤民夫(敬称略)の6氏と、前出の提唱者クロサワさんと私の計8名を発起人として、任意団体のIAIジャパンを設立することにしました。

 翌年1月に開催したセミナーには60名ほどが参加し、わざわざアメリカからこのセミナーのために、ポケットマネーを出して来てくれたエンジェルと起業家の経験談に耳を傾けました。私はセミナー参加者に次のように語りました。

「IAIジャパンは日本にエンジェルという新しいビジネスモデルを紹介します。生活のために働かなくてもすむ人で、健康で、職業のキャリアで培った知見と人脈を生かして創業期のベンチャー起業家を支援する気持ちのある方は、ぜひ会員になってください」

 すると、セミナー参加者のほとんどは入会の意思を表明してくれました。その後も機会あるごとに同じ呼びかけをして、高等学校の同期生2名、NECのOB3名などぼちぼちと入会者が増えていきました。

 2000年6月、これらの入会希望者を一堂に集めて設立総会を開催しました。このときの入会者は個人119名、法人8社でした。会員は以下の委員会のどれかに参加して、IAIジャパンの活動を盛り上げることになりました。

 ・コーポレートガバナンス委員会
 ・マーケティングコミュニケーション委員会
 ・大学関係委員会
 ・ファイナンス委員会
 ・投資研究会
 ・ウェブサイト委員会
 ・インキュベーション委員会
 ・広報委員会

 これらの委員会は、各自が持つ専門知識と経験のどの部分が創業期企業に役立つかを研究し、マニュアル化することが当面の目的です。毎月1回例会を開催して研究を開始することになりました。例会の費用は各自が負担するボランティア方式で始めました。

 IAIジャパンは私の事務所に本部を置き、会の事務は私の秘書の吉田ひろ子さんが兼務してくれることになりました。これも吉田さんがボランティアとして引き受けてくれました。例会の場所も会員の勤務先の会議室を使わせてもらったり、コーヒーショップの隅の席でコーヒー1杯で2時間粘ったりするなど、涙ぐましい努力の積み重ねでした。
 
 最初の1年間は研究だけでしたが、2001年6月に起業家とのマッチングの会を開くと、3名の起業家が参加してくれました。
 
 起業家は事業計画を説明し、IAIジャパンからは1年間の研究成果を発表し、お互いに討論します。支援してほしい起業家は気の合ったエンジェルを見つけて、個々に支援が開始されました。IAIジャパン設立1周年記念事業です。

 2年目は実践する年と位置づけ、エンジェル活動がやっとよちよち歩きを始めました。ウェブ委員会は、IAIジャパンの知名度を上げるためウェブサイトを立ち上げ、会の活動のPRを開始しました。

 広報委員会は会報を年4回発行します。
 大学関係委員会は大学発のベンチャー企業を支援するための仕組みを、大学と連携して構築しようと大学に打診しました。

 マーケティングコミュニケーションは、ベンチャー起業家に欠如しがちなマーケティングの手法を提供しようとするものです。投資研究会は投資できそうな創業期企業を発掘し、例会でビジネスモデルやビジネスプランをブラッシュアップできないか試行錯誤を重ねました。

 一番大きな成果を上げたのはコーポレートガバナンス研究会です。創業期の会社に必要な内部統制の仕組み、失敗しそうな起業家の資質、エンジェルの行動規範、起業家に期待する行動規範などを次々とマニュアル化しました。

 この会は設立後今日まで1度も休会することなく、毎月例会を続けています。商法の改正、会社法の施行、税制改革など新法の施行にあたっては、それが創業期企業にどのようなインパクトを与えるかの勉強会を開いています。

 IAIの行動規範には「エンジェルはたゆまない研鑽(けんさん)を積みます」とあるのですが、この研究会が一番実践しています。

 その後IAIジャパンは会員の総意で特定非営利活動法人として東京都の認可を取り、法人化し、それを機会にIAIの日本支部ではなく独立団体となりました。研究会も実践が主体となり、委員会の名称はグループに変更しました。

 同時にエンジェル研修グループを新設、ファイナンスと投資を合併するなど改組しています。現在までにエンジェル研修グループでは約30名のチーフエンジェルを世に出しました。そして同時に起業家研修も提供し、20名以上が履修しました。すでに創業している起業家、これから起業しようとしている予備軍などが受講者です。

第6節 エンジェルには経験と根気が必要

 このような準備と調査の後、いよいよエンジェルとして創業期のベンチャー起業家を発掘し、支援することになりました。発掘の方法もアメリカで見聞きしていたので、自信がありました。
 
 当初始めたコンサルタントは、現役時代の人脈から主として大手企業の新規起業の相談が多かったので、収入にはなっても個人で起業したり、既存企業からスピンアウトしたり、という場面に遭遇することはありませんでした。

 こうした経験を積むうちに、エンジェルになるということは、どうもコンサルタントを廃業するということを意味することに気づきました。

 アメリカの友人は「日本には優秀な回路設計者がたくさんいる。なかには独立して起業したい人もいるはずだ」と言います。また「社内起業もあるだろう」とも言われました。
 
 しかし現実は想定とは違って、経済産業省の大学発ベンチャー1000社構想や大企業の後押しによる社内起業のほうが目につく状態でした。大学発ベンチャーは未知の部分が多く、興味がありましたが、大企業が後押しする社内起業は甘えの構図が目にあまって、とても成功はおぼつかないように見えました。

 日本のベンチャーキャピタルによる未公開企業への投資はほとんどが失敗で、ファンドは元本割れか、償還金が元本すれすれというケースが多く、勉強の目的の一部は達成できましたが、資産運用としては失敗でした。

 勉強になった理由は、支援の仕方を誤るとベンチャーは成功しないという、いわば「他山の石」としての収穫です。ファンドは投資先の企業が出口を見つけると、その成果を出資者に償還します。出口に至った経緯がわかればエンジェルとしての経験につながると思って出資したのですが、結果は芳しいものではありませんでした。
 
 この経験でわかったことは、エンジェルになるには自ら経験を積まなければ何もわからない、ということです。後述するように、自ら起業し、事業を成功させて出口にいたる、そして成功の果実を手にする、ということが理想的です。

 前述したように、出口は株式公開IPOに限らず、他社に買収されることで投資した資本を回収する方法も有効です。いずれにせよ、ファンドに出資してエンジェル支援の勉強をするというモデルはどうやら成立しないようです。

 もう1つわかったことは、創業期に支援を開始することは、起業家にとってはありがたいことですが、エンジェルにとっては長い道のりになることです。
 
 バブルの時期には2年、3年で株式公開したベンチャーが数多く出現し、いざベンチャー時代到来、と関係者に期待を持たせたものですが、それらの会社は、その後、鳴かず飛ばずの状態が続いています。
 
 これらのバブルを除けば、技術志向の創業期ベンチャーに投資し、支援するのは10年継続する根気と覚悟がいる、ということです。これはハル・ニスレーとの会話を思い出させます。

 しかし、起業するのは技術志向のベンチャーとは限りません。
 カネのかかる研究開発を必要としない、既存の技術を使って手っ取り早く市場に打って出る、営業型のベンチャーで成功したケースもあります。
 これについては次の章で詳しく述べます。

第7節 なかなか出口の見えないエンジェル稼業

 私はどちらかといえば、開発志向のハイテク企業を求めており、それが未来の日本の産業を担う、というビジョンでエンジェル活動をしています。活動し始めて10年になる今日現在で、出口に到達した企業は1社。
 
 しかも、それは創業期に支援を開始した会社ではなく、株式公開が決まった後の参加ですから、そこに私の手柄はありません。

 会社設立から関わったベンチャーではトンネルの出口がやっと小さく見えてきた、という程度の会社が1社あるだけです。これは1台数億円もする高額商品を7年がかりで開発し、ようやく受注に成功して4台の商品を顧客の工場に設置しました。今後の鍵は量産ラインへの導入が成功するかどうかです。2011年の株式公開を目指していますが、それも確定したわけではありません。ハイリスク・ハイリターンの典型といえます。

 IAIジャパンの会員も創立以来8年で支援先を30社と増やしています。インキュベーショングループは300社以上の相談を受け付けました。延べ40名以上の会員が創業期企業の社外取締役、監査役auditor、アドバイザーなどに就任しています。投資を実行した会員もあります。

 また、小額の出資をまとめて投資事業有限責任組合も創設しています。この仕組みは小額のエンジェル資金をまとめて1個の株主とする仕組みとして有効です。1つの組合への出資額を全額1社に投資するので、ファンドのように運営経費がかからず、手数料もかかりません。

第8節 成功と失敗の分かれ目

 成功する起業とはどのような場合なのでしょう? 答えは簡単で、創業者である社長が以前に起業経験を持っていたかどうかです。
 逆に言えば、最初の起業はほとんどの場合、失敗するのです。

 アメリカではこのように繰り返し起業する人をシリアル・アントレプレナーと呼んでいます。しかし、何度も起業する人がすべて成功するわけではありません。IAIジャパンに相談にきた起業家の相談記録を見ると、同じ人が2回以上まったく違う案件の相談に来ています。1度相談に来て支援が得られず、1年後に別のアイデアで相談に来るのです。

 ですが、これまでの相談案件では2度目も支援に足ると判断されたものはありません。1つのアイデアがうまくいかず、すぐに次のアイデアを思いついて、次々と創業するというのは、実際はあり得ない話です。

 では、成功と失敗はどこで別れるのでしょうか。

  経験を生かして起業する
  思いつきで起業する

  手馴れたマーケットで事業を展開する
  マーケットはインターネットで調べただけ

  起業前に十分準備する
  事業計画は適当に作る

 賢明な読者はどちらを選べばよいかおわかりのことでしょう。それでは続いて失敗しないための準備について説明します。

第9節 失敗しないための準備とは?

 成功を約束できる創業準備はあり得ませんが、失敗を防ぐ創業準備はあるでしょう。井上さん(仮名)はある半導体ベンチャーに社長として参加しました。井上さんに起業経験はありません。参加する前に十分調査しないで、「事業が面白そうだ、自分の技量が生かせる」という判断で始めましたが、しばらくして「参加したことは間違いだった」と気づきました。

 そのきっかけはある起業家研修講座に参加し、事業を始めるためにはビジネスモデルを明確にして、それを実現できる戦略、すなわちビジネスプランを作成し、計画の実行に必要な資金を見積もって、その資金を調達できる方法があるか……とよく考えることが必要だと気づいたからです。

 過ちを改めるに越したことはないと井上さんは社長を辞任し、新しく起業することにしました。
 今度は研修講座で学習したとおり、ビジネスモデルとビジネスプランを自分で作成し、エンジェルに相談して、支援が得られそうだと確かめ、資金計画を立て始めました。
 会社の成長に合わせて会社の価値を高め、株価を上げてから新たな資金調達をしようと、研修講座で習ったとおりの資本政策も作りました。

 エンジェルからは「ビジネスプランにまだ改善の余地があります。資金調達の金額と時期は現実的ではありません」とのアドバイスももらい、何回も作り直してブラッシュアップを繰り返しました。
 
 細心の注意を払って作り上げた計画を数名のエンジェルに提示し、小額の資金を投資してもらえることになり、県からの補助にもメドが立ち、インキュベーション施設に入居し、外国企業からの資金調達にもメドが立って、井上さんはどうやら新しい起業に踏み出せるところまで行きつきました。

 井上さんの計画では商品の納入先も見えていて、製造で問題がなければ、売上げに結びつく可能性が高いと見られます。もちろん、この先リスクは数えれば限りがありません。ですが、井上さんの場合、成功する可能性はかなり高いでしょう。起業するには、ここまでの準備が必要なのです。

第10節 エンジェルがいないとどうなるか?
 
 井上さんは、エンジェルと呼ばれる個人投資家の支援を受けたことで、成功まで見通すことが可能になりました。手前味噌ではありますが、やはりまっとうな起業にはエンジェルの力が必要なのです。

 日本で「エンジェル」といったとき、まず思い出すのは森永のマークでしょう。すなわち文字どおり「天使」。それがビジネスと結びつくと、裕福な個人で何も言わずに資金を出してくれる人、となるようです。

 もともとエンジェル(天使)はお金と結びつきませんから、なぜ天使が黙って資金を出してくれるのか、不思議といえば不思議な発想です。
 アメリカでは資金を出す以前に、自分の経験と人脈を生かしたアドバイスと支援がエンジェルの役割です。

 その結果、事業が成功しそうだと判断でき、さらに将来それが大きなリターンとなって戻ってきそうだと判断できた場合、エンジェル資金の出番となります。

 したがって「エンジェル」は自分の経験が生きる場合、すなわち事業のタネと市場についての知見がある場合に限られるのです。起業家にとってエンジェルは資金源である前に、貴重な経営資源なのです。創業期において経験から来るアドバイスほどありがたいものはないでしょう。

 また、事業資金や設備投資資金を、ベンチャーキャピタルや事業パートナーから調達するときにも、どのような事業計画をもって投資家に説明をすればよいか、起業家にとって初めての経験であれば、エンジェルの経験を生かすことは大いに役立つことは想像にかたくありません。

 起業経験があって豊富な資金を持つエンジェルは日本では稀有な存在です。ほんの一握りのエンジェルでは数多く起業するベンチャーの支援にはとても手が回りません。そのような環境のなかで資金提供者と補完的役割を果たせる支援者を育てようと設立された団体があります。

 そのいくつかの例はIAIジャパン、日本エンジェルズフォーラム、ベンチャーを支援するベテランの会、あるいはディレクトフォースなどです。

 これらの団体は起業家が事業計画を持って相談に行けば、エンジェルが起業家の目線に立って、心のこもった助言やメンタリングを提供してくれます。

 定例会で複数の案件を大勢のエンジェルが聞いてくれる場合と、個々の相談を少数のエンジェルが対応してくれる場合がありますが、どちれの場合も親身になってもらえます。それがまさにエンジェルの本領といえるのかもしれません。

 いずれにしてもエンジェルの支援は押し付けではなく、起業家との間で何回もの面談と助言を通じて相対で決まるものです。これらの団体が旗揚げするのは私が起業してから15年近くを経てからの話です。

 今後日本中にエンジェルのネットワークが広がることも期待してよいでしょう。ただし、日本型エンジェルの姿はまだまだ見えてはいません。それがどのようなものであるかは霧の中です。