日本初の個人投資家が教える「起業の教科書」

 米マイクロソフトは1986年3月に株式を公開しましたが、このとき集めた資金は6100万米ドル。現在、同社の時価総額は2500億ドル(日本円にして約28兆円)を超えていますから、20年で4000倍になったことがわかります。
 これはもちろん例外中の例外ですが、起業の醍醐味は多かれ少なかれ変わることはありません。本章では、マイクロソフトやインテルなどの成功例とともに、日本での実例をあげてみます。

第1節 私が見た日本の起業の成功例

 起業の成功例にはどのようなケースがあるのか、実際に見ていくことにします。

 LSIロジックの日本での旗揚げに前後して創業したイノテックは、半導体製造装置の販売商社として1987年に設立されました。
 同社は、半導体製造装置や電子デバイスを主要な業務分野としています。
 
 この会社は、創業者・吉田稔さんの前職での経験が大きくものを言ったようです。半導体製造装置で世界有数のシェアを握る東京エレクトロンから数名がスピンオフして創業したのですが、このなかに同社の株式公開で枢軸の地位にいた財務畑の人がいました。

 彼がイノテックの内部統制とビジネスプロセスを作ったおかげで、それまでに前例のない速さで株式公開にいたったと思われます。

 吉田さんとは前職の頃からの知己で、私がLSIロジックを日本に設立した直後、「こんな起業を考えています」と相談がありました。

 それは私が理想とする半導体製造装置の輸入商社のモデルだったので、一も二もなく賛成しました。そして若干の創業投資もしました。いわばエンジェルとしての支援でしたが、当時はその認識はありませんでした。吉田さんは私の他にも複数の支援者に創業株を引き受けてもらったものと思われます。

 当時吉田さんとはときどきお会いする機会があり、次のような会話を交わしました。

 吉田「今度新しく会社を興すつもりです。ぜひよろしくお願いします。海外から半導体関連の機器を主に輸入する会社です」
 「吉田さんは東京エレクトロンの経験がおありだから、それを生かすのでしょう?」
 吉田「アメリカのベンチャー企業が日本市場で急成長できるよう支援したいのです」
 「ベンチャーの弱みは販売と保守サービスだと思います」
 吉田「そこが目のつけどころです。エレクトロンでの経験が生きると思います」
 「設計支援ツールもアメリカが強いですね。LSIロジックもその1つですが」
 吉田「そのへんも考えています。我々は創業期の支援に徹し、彼らが日本市場を理解する手伝いと、独立して販売できるようになるまでの支援が役目だと考えているのです」
 「アメリカのベンチャーにとっては福音になるでしょうね」

 吉田さんのビジョンは明快で、外資が日本市場に根付いたら独立すればよい、イノテックはそれまでの支援で、いわばエンジェル的存在の商社ということになります。

 アメリカでは次々とベンチャーが起業することを経験上知っており、将来もそれは続くと予見したのでしょう。吉田さんの洞察力は間違っていなかったようです。短期間でIPOできたのはベンチャー企業との契約を有利に結んで、大きいマージンで輸入販売したからと思われます。

 まったく基盤のないアメリカのベンチャーはイノテックのビジネスモデルに大きな魅力を感じたのでしょう。この事例は両社にとってwin-winの関係であったと思われます。

 当然のことですが、当時はエンジェルによる支援はなく、シリアル・アントレプレナー(2度3度と起業し、複数の成功を収める起業家のこと)として創業した経営チームが事業を引っ張ったものと思われます。

 吉田さんは起業に際してどんな準備が必要か、また十分な準備が起業後の事業成長にどのように役立つかを知っている、当時にしては珍しい起業家だったといえるでしょう。

 資金手当て、行動規範作り、人集め、市場調査、顧客の確保、競合の有無の調査……と多岐にわたった準備をしてから会社を作るのと、とりあえず会社を作ってから計画を立てるのとでは成長の速度が大きく異なることは当然です。

 すなわち、イノテック社の成功は創業前にビジネスモデルを明確にし、それを実現できる事業計画が作られていたのです。吉田さんの営業経験から、日本の顧客が半導体製造装置に対して持っている期待を満足させる会社を作ろう、との使命感も大きな要因でした。

 そこで、吉田さんはアメリカのメーカーの独創性と日本の顧客の細かい要求を結び付けられるよう、メーカーと顧客の橋渡しをし、必要に応じて日本での機械の改造と保守サービスを提供しました。
 このことは、アメリカの独創性が時として品質を無視する結果となることを知っている日本の顧客にとって、心強いベンダーに育つ重大な要件となりました。

 その結果、イノテックは創業後3年8カ月で当時の店頭市場に上場しました。IPOのタイミングもよかったせいで、同社の株式はうなぎのぼりになりました。

 もう1つの事例を紹介しましょう。LSIロジック大阪支社で営業担当だった藤木英幸さんが起業したフュートレック社は、創業後5年でマザーズに上場しました。藤木さんはその前にもLSI設計会社を起業しています。フュートレックは比較的手軽な音源ICを開発し、携帯電話をアプリケーションとして、流行の波に乗った会社です。

 この会社は商社ではありませんが、顧客のニーズを的確につかんで製品を開発して成功した、いわばビジネスモデル重視型といえます。藤木さんはフュートレック社を創業する前に、私を訪ねてきました。

 藤木「今度新会社を興して、ファブレスのモデルにすることにしました。前の会社はパートナーに売却します」
 「設計会社は株式公開に適していないから、その方がいいでしょうね」
 藤木「そこで八幡さんに会長になっていただきたいのです」
 「前にも言ったけど、僕は引退して執行役には就かないことにしました。エンジェルとして社外取締役なら引き受けるよ」
 藤木「それは残念です。今後ともよろしくお願いします」

 私は彼が結婚するときに媒酌したので、断るには断腸の思いでしたが、アプライドを最後に「引退」したので、再復帰はできませんでした。フュートレックは創業後急速に成長し、その後、NTTドコモと資本・業務提携するなど、順調に成長しています。

第2節 マイクロソフトとインテル

 かの有名なマイクロソフト社は、学生であったビル・ゲイツの最初の創業がそのまま成功した例として知られますが、彼にはコンピュータのOSというアーキテクチャのビジネスモデルが明確に見えていました。
 彼がガレージで創業したことは知られていることですが、ソフトウェアという商品だったため、工場や設備を必要とせず、ゼロから頭脳だけを資本として始めることができました。

 必要な資本は資金だけではないという典型を示しています。

 インテル社はフェアチャイルド・セミコンダクタを立ち上げたチームがその経験を生かして創業したシリアル・アントレプレナーの例です。インテル社のビジネスモデルはフェアチャイルドでの経験をもとに、付加価値の高いICを目指すことでした。

 しかし、同社の創業間もない時期、作る製品を絞り込めず、方向を見極めかねていた、などという逸話はもはや憶えている人はいないかもしれません。最初はDRAM(随時書き込み、読み出し可能なメモリ)と呼ばれる半導体メモリを開発しましたが、電卓の成功をヒントに、製品モデルごとに独自LSIを開発するのではなく、マイクロプロセッサ(中央処理装置)のアーキテクチャを考案し、標準化できないかと考えたのです。

 当時の電卓メーカーは、他製品との差別化を図るため、モデルごとに新しい回路を設計して一から作り直していたため、1つの製品を開発するのに1年以上もかかっていました。

 電卓の過当競争で疲れたLSIメーカーは、なんとかマイクロプロセッサの標準化を図ろうと、必死に基本となるアーキテクチャを開発していました。
 インテルのほかに、モトローラ、テキサスインスツルメントなどの大手メーカーと、電卓用LSIメーカーのベンチャーが競っていたのです。
 
 そのなかでインテルが抜きん出ていたのは、マーケティングの思想でした。
 
 営業の副社長であったビル・デイビドウは、LSIの性能だけでは売れない、LSIのマーケティングが必要だと主張していました。
 具体的にはマイクロプロセッサのアーキテクチャはもちろんのこと、その周辺にもいろいろなドライバーを用意して、顧客の設計を容易にすること、製品の応用例、開発用のプラットホーム、わかりやすいマニュアルなどすべてそろえることでした。

 しかも製品仕様の決定前に徹底的に顧客の要求と声をヒアリングするという手法を、この業界では世界で最初に取り入れたのです。彼はこの経験を『MarketingHighTechnology(技術を売り込む営業)』という本にまとめました。

 彼はその著書のなかで、「製品がどのように優れていようと、それ自体が売れるとは限らない。中身と同じくらい見た目にも魅力的でなければならない、あたかも贈り物は美しい包装紙に包んで、リボンをかけて飾るのに似ている」と書いています。

 この2社の成功も決してはじめから約束されたものではなく、廃業の危険にさらされたこともありましたが、リスク管理が適切であった結果、大きな成功にたどりついたのだと思われます。

 半導体ビジネスにはシリコンサイクルと呼ばれる景気の浮沈があり、経営の舵取りでアクセルと
ブレーキを踏む時期を間違えると、大きな損害を受けることを知っている点が、リスク管理につながるのです。

 とはいえ、この2社は半導体ベンチャーの歴史のなかでも例外的な成功で、このような企業の創業期に関われる機会は20年に1度程度であると思ってよいでしょう。

 特筆すべきことは、この2社の創業期に将来大きな成功を見込んだ投資家はおそらく皆無であったということです。

 この当時にはアメリカにもエンジェルという概念はあまり存在せず、まったくの手探りでの創業であったと思われます。よく言われることですが、学生時代のビル・ゲイツに投資しようと考えた人はほとんどいなかったと回顧する人が多いのです。
 
 それほど、人はどんな可能性を秘めているか、また何が幸いしていかに大成功を手にできるかを予見することは難しいのです。

第3節 「起業は当たり前」という友人たち

 私が10年間在籍したLSIロジックの同僚たちのなかには、IPOで成功した人、起業はしたけれどIPOにはいたらなかった人などさまざまいますが、起業家意識の高い人が多い点が日米に共通しています。
 その理由として、同社の創業者であるウィルフ・コリガンのDNAを受け継いだ人材が多い、との見方ができます。

 シリコンバレーではR・ノイスらが起業したフェアチャイルド・セミコンダクタ社が多くの起業家を輩出したことから、「フェアチャイルド・スクール」との呼び名が高いのですが、LSIロジックも規模はフェアチャイルドほどではないにせよ、起業家の温床であったと言えます。

 ウィルフ・コリガンは、社員に訓示するとき、必ずと言っていいほど自分の生い立ちをエピソードとして入れます。

 ウィルフはイギリスからアメリカンドリームを夢見て渡米し、最初の職はトランジトロン社の現場技術者だったのですが、そこで与えられたのは椅子1つだけ。指導も何もなく、いきなり製造現場での技術的なトラブルを解決しろとの命令が出たとき、自分はどうしたかという話。

 あるいはまた、ノイスがフェアチャイルドを飛び出してインテルを起業した後、フェアチャイルドを任されたレスター・ホーガンからスカウトされたときの話。

 こうしたエピソードには彼の起業家精神が遺憾なく発揮されていて、社員の起業家精神をあおるのです。それが功を奏したのか、社内での創造性発揮に役立つとともに、転職して創業期の会社に参加したり、自ら起業したりする社員が後を絶ちませんでした。

 アメリカではこのようなことは日常茶飯事で、社員のやる気を起こさせた結果が転職につながることは、人材流出というより、むしろ会社のためになると考えるようです。

 成功した起業家の1人に数えられるビル・オミーラはLSIロジックの副社長でしたが、その座を放り出してシスコ・システムズの経営陣に入り、LSIロジックのIPOの経験を生かして大型IPOに成功し、数十億円を手にしたといわれます。

 ビルの経営手腕が並外れていたとも思えませんが、シスコの成功のニオイを嗅ぎ取る嗅覚のよさが勝利の要因のように思えます。彼は現在フロリダのネープルズという旧い小さな町に住んでいますが、エンジェルネットワークに入っているそうです。

 成功はしませんでしたが、ASICの要である自動設計ソフトを構築したジム・コフォードは、新しい自動設計ソフトを提唱して、モントレー・デザイン社を起業しました。ジムは経営者の器ではなく、どちらかといえば技術者タイプで、創業5年後には社長の座を他人に譲り渡して、CTO(最高技術責任者)に収まりました。

 応用技術担当の部長をしていたベン・リーは画像処理のLSIを売り物に起業しました。LSIロジックの日本法人では第1節に出てくるフュートレックの藤木英幸さんの他にも、スターウェイを起業し、ユニークな梱包技術と梱包財の再利用モデルを成功させている竹本直文さんがいます。企業文化が起業家を育てるとの見方ができるのではないでしょうか。これらの人たちに共通している要素を考えると、

 ●起業のタネがぼやけていないこと 
 ●リスクを読んで、回避策をあらかじめ考えていること
 ●知人のなかに資金を出してくれる人がいること 
 ●市場を知り尽くしていること

 の4点が思い浮かびます。

 アメリカでは転職は珍しいことではなく、むしろ1社に長く勤 めると、能がないのだろうと思われるのがオチです。日本でも外資系企業の間では人材のスカウト合戦があり、転職は頻繁に行われています。

 LSIロジックも外資系ですから、社員の定着率は高いとはいえません。勤務先で自分の能力が100%発揮できないとわかると転職していくのです。
 
 私は社員に、
「会社は君たちに白いキャンバスと絵の具を提供します。皆さんはそれに自分の夢を描いてください。その夢が会社にとって役立つなら厚遇します。役立たないなら、それが役に立つ会社を探しなさい」
 と言いました。
 
 社長の訓示としては珍しいと思います。社員と会社は対等であり、会社は給料を支払って社員の能力を買い、社員は手にする給料に見合うアウトプットを出す、というのが公平な関係ではないかと思っています。

 アメリカでは当たり前のことですが、日本にも外資系を中心に、この考え方が広がりつつあるのではないでしょうか。それは社員の挑戦心を育て、創造性を呼び起こす役に立つと信じます。

第4節 成功の要因は製品だけではない

 話を再び日本に戻しましょう。前述したイノテック社の経営陣は、当時、半導体摩擦が日米間に起こることが確実となり、日米の半導体企業同士が政府を巻き込んで紛争する可能性を見通していました。
 半導体製造装置ではその事態を避けようと、米系ベンチャー企業の日本市場開拓を支援できる仕組みをビジネスモデルとして創業したのです。

 東京エレクトロンがアメリカベンチャーの弱みを補完するために日本での装置組み立てを推進したのに対し、イノテックはアメリカのベンチャー企業自身が日本市場を開拓できるよう、援助することを事業モデルとしたのです。

 その結果、米ケイデンス社は日本法人を早い時期に設立することができました。顧客ルートを経験豊富なイノテックのネットワークによって早期に開拓することができたからです。このリスク回避策は見事に功を奏したといえます。

 一方LSIロジックは大企業の経験があるとはいえ、創業の経験もなく、知名度のないアメリカベンチャーの日本法人としていきなり独立したわけですから、顧客の信頼を得るのに3年もかかってしまいました。
 この点は用意周到だったウィルフ・コリガンも見落としていたのでしょう。
 
 そこで取ったのは本社が徹底的に日本法人を支援するというやり方です。トップ経営者のウィルフはもとより、製造担当の副社長、企画担当の副社長なども必要に応じて、いつでも来日して顧客訪問に応えてくれました。

 大阪では「アメリカからわざわざ表敬訪問に来てくれる本社社長は滅多にいませんのや。えらいご丁寧なことですんません」と顧客に接待されることも少なくありませんでした。

 しかし、大阪で成功したトップダウンとボトムアップの両面作戦も、関東の大企業には通用しませんでした。東西のビジネス環境の違いには、日本人である私でさえ気づいていなかったのです。
 
 関東ではむしろ、通産省(今の経産省)からの圧力を利用した営業のほうが効果的に思われました。そこでウィルフは通産省の課長クラスと会わなければなりませんでした。霞が関の書類の山に埋まった役所の現場はウィルフには相当奇異に映ったようです。

 2~3回訪問を重ねるうちに局長が会ってくれるようになりました。半導体摩擦の申し子であるユーザー協議会の話題と、そこに提出する月報が当社の場合高く評価されていることが有利に働いたのです。

 顧客である企業は、通産省からLSIロジックは真面目に市場開拓に取り組んでいると言われれば、その製品を採用せざるを得ない圧力を感じても不思議ではなかったのです。

第5節 時代の流れを敏感につかめ

 ここまで触れた事例を見ると、成功させるものは技術や製品だけではなく、マーケティングが重要な役割をもっていることがわかります。
 そのなかには時代の流れを敏感につかみ、それにうまく棹をさして船の速度を上げることも入るのです。

 時代の流れといえば、インテルがDRAMという大量消費製品を捨てて、マーケティングの困難なマイクロプロセッサを選んだのも時代の流れを感じ取ったからかもしれません。
 この選択は同社の将来にとっては重要なものとなり、同一アーキテクチャの継承による設計資産の再利用が可能となったため、他の類似商品を凌いで長期的にトップシェアを取れることになりました。

 ハードウェアとしては技術的に優位性のある製品が他社から出ましたが、得意先の持つ膨大なソフトウェア資産を入れ替えなければならないため、技術の世代交代に当たっても、インテルを採用せざるを得ない状況を作り上げたのです。
 
 これはその後何年も経ってから、ロジック製品の採用に当たってシステム設計者の指針となったといえます。
 すなわちいったん開発したソフトウェアを、世代交代のときに一から作り直すのではなく、次の世代generationのマイクロプロセッサに乗せかえるだけでよい、という点です。

 2000年を過ぎてから、この発想で次世代型のマルチコア・マイクロプロセッサを考え出して提唱するベンチャーが生まれ、開発に凌ぎを削ることになります。それについては後に述べる機会があるでしょう。