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【さようならスワロー・エンゼル】急行券/札幌駅

C62
C62

さようならスワロー・エンゼル

栄光の名機 “スワロー・エンゼル” を追え、これは全国SLファンの合言葉である。銀色に輝くツバメのマーク、力強いドラフトの響き、C62の2号機、それは日本最大、最強のSLの王者の雄姿である。

そのもっとも栄光に満ちた時代は、昭和25年春から昭和31年秋にかけて、東海道本線の特急“つばめ”を引いていたときであった。

この勇者C62も時代の波に消えさろうとしている。昭和23、24年に49両製作された僚機も、小樽築港機関区にある、2、3、15、16号機のみで、2号機が9月15日限りで急行ニセコとお別れし、長万部・小樽間普通列車第135、136列車を引き、その他の3両は廃車の運命にある。

9月15日がC62の最後の三重連、もちろん重連すらお目にかかれなくなる。

国鉄北海道総局(原文ママ)

【さよならC62】急行券/岡山駅

D51
D51

三重連蒸気機関車 1969・9

伯備線新見一足立間にみられる全国でもただひとつのD51型三重連

布原信号場を午前9時16分に発車、鉱石専用列車をひいて急勾配を登る。国鉄近代化のかげに次第に姿を消して行く
蒸気機関車の中にあって、ファンの人気を集めている。

D51型蒸気機関車は昭和14年に登場、約30年間全国の主要幹線で活躍していた。

 

C62
C62

さょうならC62 1970/8

つばめ・はと・かもめ・はやぶさ……と、かってほとんどの特急を引いて山陽本線を驀進したC62は、いま中国地方では、呉線を走る急行安芸にその名残りをとどめている。

宮島の赤い鳥居を配したヘッドマ一クをつけ、瀬戸の青い海、緑の島々に映えながら走る真っ黒なC62の巨体は、まさしく美しい日本の情景の一つであろう。

呉線電化で、まもなく去りゆく運命のC62は、きょうも人生の哀歌を乗せ、多くのドラマを生んで走る。その日がくるまで、ひたすらに……

 

C62
C62

栄光の名機C62 1970/8

戦後の旅客用機関車の不足を補うため、昭和23年貨物用のD52を改造して誕生した蒸気機関車がC62である。

C62は、1750mmの大動輪に極大のボイラーを搭載した、日本最大の旅客用蒸気機関車で、当時栄光のマンモス機関車と、もてはやされた。

東海道本線・山陽本線の幹線で大活躍し、特にC62に牽引された特急つばめは、ヘッドマークの飛翔するつばめのスマートさとあいまって、多くの人々に愛され、親しまれた。

電化でまもなく去りゆく運命のC62は全国で現在9両が活躍している。

 

C62
C62

蒸気機関車C62 1970/8

明治5年、鉄道が始めて新橋一横浜間に開通して以来、蒸気機関車はいつも日本人の精神のよりどころであった。

白い蒸気を吐き、黒い煙を噴き出して一生懸命走る蒸気機関車の姿は、あまりにも人間の姿に似ているように感じられた。

今また、C62が去ろうとしており、そのうち蒸気機関車は、日本からまったく姿を消すであろう。

しかし、永遠に、その姿は人々の心に残り、その勇壮な様は人々の口に語りつがれるに違いない。

(以上、原文のまま)

岡山鉄道管理局

【蒸気機関車シリーズ】急行券/札幌、小樽

1969年、毎月1枚ずつ、札幌鉄道管理局から発行された「蒸気機関車シリーズ」の急行券です。
以下、番号順に解説を原文のまま引用しておきます。

蒸気機関車シリーズ急行券

(1)義経 1Cテンダ機関車

北海道の幌内炭山の石炭を運ぶため、開拓使が経営した幌内鉄道の手宮一札幌間が明治13年11月28日に開業(日本で3番目)したときに運転された機関車は、1号義経と2号辨慶であった。

義経号はアメリカのポーター社製でカウ・キャッチッヤー(牛除け)やベルを付けたウエスタン・スタイルであると共に空気制動機などの新らしい設備を持ち、運転整備のときの全重量約30トンの当時としては優秀な機関車であった。

明治22年12月に北海道炭砿鉄道に払下げられて石炭輸送などに活躍、明治39年10月には国有鉄道に買収され、7100形、7105号となり新線の建設に使用された。

大正12年5月に大阪府堺市の梅鉢鉄工所に譲渡されて働いていた。鉄道80年に当る昭和27年に国鉄へ寄贈されて、鷹取工場で復元され、現在同工場に準鉄道記念物として保存されている。(原文ママ)

 

蒸気機関車シリーズ急行券

(2)1Cテンダ機関車 大勝号

“大勝号”は北海道炭砿鉄道が日清戦争の際に、石炭増送のため同社の技術陣によって設計し、手宮工場で製造された、道産第1号、国産第2号機関車であった。

これは義経及び弁慶号の予備台粋が1両分あったので、それを利用し、従って主要寸法は義経号とほぼ同じであった。この完成は明治28年10月で、国内は戦争の勝利に湧いていたので“大勝号”と命名された。

これの形式はト、番号は30で、運転整備のときの重量は26.47tであった。

完成後は手宮で入換に使用され、明治39年10月には国に買収されて、7150形、7150となり、手宮や滝川で入換に使用されていた。

大正7年に北海選炭砿汽船株式会社に譲渡されて、炭坑の充填用火山灰採取線で働き、昭和初期に一時休車、昭和16年に再起して同社の煉炭工場で使用され、戦後廃車された。

昭和29年に同社から国有鉄道に寄贈され、苗穂工場で復元、現在は鉄道準記念物に指定されて小樽市手宮の北海道鉄道記念館に陳列されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(3)1D過熱テンダ機関車 9633

9600形蒸気機関車は日本の幹線鉄道が時代の要求によって国有化された後に、主力となる貨物列車用機関車として過熱蒸気を使用し、また当時論議されていた広軌(1435mm)への改造も考慮されて、国産されたものであった。

これらは大正2年から同15年にかけて770両製造され、四国地方を除く全国で重宝に使用され、北海道では大正6年に19608、19612がはじめて倶知安に配置されて急行旅客列車を索引し、また室蘭本線で2400tの石炭列車を索引(※牽引の誤植)したのもこの形であった。

その後日華事変の際には約250両が1435mm軌間に改造されて大陸へ送られてしまった。
9633は大正3年11月に川崎造船所で製造、運転整備のときの全重量は87.9tであった。

これは完成後本州方面で使用されていたが昭和30年3月に小樽築港へ移って入換用などに使われ、昭和42年4月から放送されたNHKテレビ“旅路”には大正時代を代表する蒸気機関車として出演し、茶の間の人気者となった。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(4)1D1過熱テンダ機関車 9908

9900形蒸気機関車は第1次世界大戦の終結によって、一時下降した貨物の輸送量が、大正10年頃から再び増加しはじめたのに対処して、強力な貨物列車用として生れたものであった。

これらの車軸配置は、かって明治30年に日本鉄道が常磐炭の輸送に当って、アメリカに注文した機関車が採用した形式で、そのために日本を代表する意味で“ミカド”形と呼ばれたものである。

これらは大正12年から昭和6年までの間に380両が製造され、その形式称号は昭和3年の改正でD50形となったものである。

これらの用途は主要幹線の貨物列車や勾配線区で、北海道では大正13年に9908、9909の2両がはじめて函館に配置されて、急行旅客列車の牽引をしていた。

9908は大正12年に川崎造船所で製造、運転整備のときの重量は127.14tであった。

完成後は函館に配置され、昭和3年にD509と改番、その後小樽築港、黒松内、岩見沢を経て昭和8年から再び小樽築港に配置され、昭和25年に廃車された。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(5)2C1過熱テンダ機関車 C55 30

C55形蒸気機関車は大正時代に駿足を誇ったC51形(18900形)に代る新鋭機として、昭和10年から製造され、総数62両が主として地方幹線の急行旅客列車に使用された。その最初の2両、C551、C552は小樽築港に配置されて函館本線の急行旅客列車を牽引した。

なお昭和のはじめ頃は航空機の発達に伴って、鉄道でも車両の流線形化が世界的に取上げられ、国有鉄道では電気機関車、電車ディーゼル前車をはじめ蒸気機関車ではC53形の1両と当時新製中であったC55形の21両(C5520〜C5541)に流線型覆が取付けられた。

C5530は流線型のうちの1両として、昭和11年に川崎車両で製造され、運転整備のときの全重量は113.04tであった。これはC5531、C5532と共に北海道へ配置され小樽築港と函館にいて函館本線にさっそうとした姿を現わした。

しかし点検と修繕に不便なことから、戦後に覆いは取外された。現在は旭川機関区に配置されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(6)2C1過熱テンダ機関車 C57 201

C57形蒸気機関車はC55形に改良を加えた急行旅客列車用で、国有鉄道の蒸気機関車としては16kg/cm2の缶使用圧力をはじめて採用したものであった。

これらは昭和12年から同17年までの間に169両、昭和21—22年に32両、計201両が製造されて、当初は東海道、山陽、北陸、常磐などの各線、戦後は本州及び九州の地方幹線で使用され、北海道では昭和22年にC57 200、C57 201がはじめて小樽築港に配置された。

C57 201はこの形の最終機として昭和22年9月に三菱重工で製造、運転整備のときの全重量は116.15tであった。

これは完成後小樽築港に配属されおもに函館本線及び根室本線の急行旅客列車の牽引に当り、その後重油併燃装置を取付けて小樽・釧路間426.9km、旧狩勝越えのロング・ランを行って当時日本で最長の運転距離を記録したベテラン機関車の1両であった。

昭和43年9月から旭川へ移って函館、宗谷、石北などの各線で急行旅客列車などに使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(7)1C1過熱テンダ機関車 C581

C58形蒸気機関車は日華事変の進展に伴って国内の客貨の動きが活溌になり、特に地方線区での輸送量が増加したことと、それらの線区で使用されていた9600形が大量に大陸へ送られたための補充として客貨両用に新製されたものであった。

これらは昭和13年から同19年の間に樺太のものを含めて382両、昭和21—22年に45両、計427両が製造されて全国的に使用され、北海道では昭和13年にC5835、C5836がはじめて室蘭に配置された。

戦争の末期には25両が1000mm軌間に改造されてタイなどへ送られたが、大半のものは輸送中に船舶と共に沈没したということである。
C581はこの形の1号機として昭和13年8月に汽車会社で製造、運転整備のときの全重量は100.2tであった。

これは完成後新鶴見に配置されて試用の後、千葉へ移って総武線で使用され、昭和25年5月30日から北見に配属されて石北、池北、釧網線などの各線で客貨両用に使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(8)1D1過熱テンダ機関車 D51 237

D51形蒸気機関車は昭和10年頃から貨物の輸送量が増加したことに対処して新製された。大形の貨物列車又は、勾配線用機関車で、昭和11年から昭和20年の間に製造された総数は1115両という、1形式では最高のものとなった。

これらは全国の主要線区で活躍し、北海道にはD516、D517の2両が昭和11年に小樽築港に配置されて函館本線で使用された。

D51237は当時、急激に増加した輸送需要と、外地へ転出した機関車の補充などのために、国有鉄道の工場でも蒸気機関車が製造されることになって、苗穂工場で製造した第1号機として昭和13年10月25日に落成し、これの台枠前部鋳物に関係者の名前を刻んだボルトが打込まれている。

運転整備のときの重量は125.10tである。完成後は岩見沢に配置されて石炭輸送に使用され、昭和18年3月から函館に移り、現在は長万部機関区にいて函館本線、室蘭本線で働いている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(9)1D1過熱テンダ機関車D52 468

D52形蒸気機関車は第2次世界大戦の拡大と共に貨物輸送量が増加し、そのために強力な貨物列車用機関車が要求され、他面極度に資材を節約した代表的な戦時設計として生れた、日本で最強のものであった。

これらは昭和18年から製造されたが、終戦時には予定の両数に達せず、製造中のものは昭和21年3月までに完成したもの(を)以て打切った。そのために最終番号のものはD52468 となったが実数は285両であった。

これらは戦争末期の主要幹線で使用され、北海道ではD5221など30両が長万部に配置されて函館本線及び室蘭本線の長大貨物列車を牽引して活躍した。

D52468 はこの形の最終機として昭和21年2月に三菱造船所で製造、運転整備のときの全重量は136.89tであった。

これは完成後沼津に配置されて東海道本線の貨物列車を牽引し、昭和31年11月に姫路へ移って山陽本線で使用され、昭和35年10月から五稜郭でおもに五稜郭・東室蘭間の貨物列車に使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(10)Bタンク機関車 B201

B20形蒸気機関車は日本が第2次世界大戦に突入した頃、資材の節約を図り、作業工程を簡略にするなどの目的を以て設計された、いわゆる戦時形小形機関車の一つであった。

これらは機関区で検査や修繕をする機関車を移動させる場合に、転車台などの長さに制限があるため、特に小形の機関車を必要としたので、戦争末期に製造され、昭和20—21年に15両が完成した。

B201はこの形の1号機として昭和20年3月に国有鉄道郡山工場(当時運輸通信省鉄道総局郡山工機部)で製造、運転整備のときの全重量は20.3t、当時新製された国有鉄道の蒸気機関車としては最小のものであった。

これは完成後盛岡工場で使用され、昭和25年9月に小樽築港へ移って同機関区の入換作業に使用されていた。

しかし戦時設計であったために老朽化したので昭和42年10月に用途廃止となり、処分は保留されたまま同機関区に保存されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(11)2C2過熱テンダ機関車C62 2

C62形蒸気機関車は戦後の日本の復興が進むにつれて旅客列申用機関車が不足したので、当時余り気昧となっていた貨物列車用機関車を連合軍の指示で改造したものの一つであった。

これらはD52形の缶を利用し、自動給炭機を備えた日本で最大の蒸気機関車で、昭和23〜24年に49両製造され、東海道及び山陽本線で使用された。

C622はD52455を昭和23年5月に日立製作所で改造、運転整備のときの全重量は145.17tであった。これは完成後糸崎で山陽本線の急行旅客列車などに使用され、昭和25年8月に宮原へ移ってもっぱら特別急行列車“つばめ”の牽引に当っていた。
そのためC6229と共に前頭の煙除板には流れるように飛ぶつばめの姿が取付けられて、多くの人達から親まれたのであった。

その後幹線の電化が進んだので、これを地方幹線の急行旅客列車に使用するために働輸上重量を軽くして、昭和32年2月から小樽築港に配置し、函館本線の勾配区間である函館・小樽築港間で使用している。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(12)1D2過熱テンダ機関車D611

D61形蒸気機関車は戦後日本の国有鉄道で主要幹線の電化が進められた結果、それらの線区で従来使用されていた貨物列車用機関車が余ってきたので、従台車を改造して2軸台車として機関車の動輪上重量を軽くし、比較的に線路規格の低い地方の支線区でも使用できるようにしたものの一つであった。

これらはD51形を改造して昭和35〜36年の間に6両が完成して、そのすべてが北海道で使用されている。
なおこの形式は国有鉄道の蒸気機関車としては最後に定められたものであった。

D611はこの形の1号機として昭和35年1月に国有鉄道浜松工場でD51640を改造、運転整備のときの全重量は127.55tであった。
これは完成後に豪雪地帯で使用することとなったため、その後に改造した5両と同様の密閉式運転室となった。

昭和35年6月に留萌に配置されて留萌本線及び羽横線の貨物列車の牽引に活躍している。(原文ママ)

2C2テンダー機関車

蒸気機関車steamlocomotive形式C61過熱テンダー機関車(昭和22年使用開始)

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C62過熱テンダー機関車(昭和23年使用開始)川崎車輌、汽車製造、日立製作所

 
戦争中、増大した貨物輸送に対応するため、おびただしい数のD型機関車が作られましたが、戦後、貨物の激減で、多くのD型が遊休状態となりました。逆に、旅客輸送が大幅に増えたため、D型のボイラーを流用して、旅客用のC型に改造することになりました。

軸重が過大になるのを防ぐため、国鉄初の2軸従台車と採用。さらに、自動給炭機も装備していました。日本史上、最大で最強の旅客用蒸気機関車です。

なお、D51の改造はC61、D52の改造はC62となっています。