タグ別アーカイブ: C57

【蒸気機関車さよなら運転記念入場券】記念切符/高崎駅

C57

C57型式 C5728号

高崎線(高崎〜倉賀野間)を走る急行あかぎ号
昭和26.11撮影

 

C58
C58

C58型式 C587号

八高線(北藤岡〜藤岡間)を往く上り貨物列車
昭和32.4撮影

 

D51
D51

D51型式 D51509号

信越線(安中〜磯部間)を往くデコイチの雄姿
昭和37.1撮影

 

D51
D51

D51型式

八高線・折原〜竹沢間・のどかな田園風景に活躍するデコイチ
昭和45.7撮影

C12
C12

C12型式

足尾線草木〜沢入間を渡瀬川の渓流に沿つて走るC12型の雄姿
昭和45.6撮影

 

C12
C12

C12型  重連 C12163号
C1241号

神土駅構内で整備され、山間の勾配線に向つて出発するシイジユウニの元気一ぱいの活躍
(C12型重連は全国鉄中足尾線のみに見られたものです)
昭和45.7撮影(原文ママ)

【第98回鉄道記念日】入場券/金沢駅

7100
7100

7100形式テンダ機関車
明治13年北海道の最初の鉄道である幌内鉄道(小樽、札幌間)の開業のため米国ポーター会社から輸入された小形テンダ機関車である。台枠等の構造がすぐれ、その後の近代蒸気機関車の基礎となった。機関車ごとに義経、静、弁慶等の愛称がつけられたためもあって、機関車ファンの愛好の的となり、現在3両が創業時の姿に復元されて保存されている。同形式8両。

軸配置 1C     ボイラー圧力 7.7kg/cm2
全 長 11.9m    運転整備重量 28.1t
火格子面積 0.9m2  動輪周出力 300ps
動輪径 914mm   最高速度 45km/h

 

8620
8620

8620形式テンダ機関車

国鉄の機関車は明治期には輸入機が大部分であったが、明治中期に国産機が誕生し大正前期には完全に国産化された。大正3年製の旅客用の8620は9600とともに国産標準機の第1号であった。万能型の性能であらゆる支線区に使用され、鉄路のあるところ8620を見ざるところなしのほど全国的に普及した。新製両数687両、現役両数文は93両。

軸配置 1C     ボイラー圧力 13kg/cm2
全 長 16.8m    運転整備重量 83t
火格子面積 1.63m2  動輪周出力 630ps
動輪径 1600mm   最高速度 90km/h

 

C57
C57

C57形式テンダ機関車

昭和12年にC51形式の改良近代化機として誕生し、北陸線、鹿児島線、東北線等の幹線の旅客列車けん引に使用された。形態は優美の象徴ともいうべきで国鉄の機関車のうち最もスマートである。新製両数は201両、現役両数は109両。
軸配置 2C1     ボイラー圧力 16kg/cm2
全 長 20.3m    運転整備重量 116t
火格子面積 2.53m2  動輪周出力 1040ps
動輪径 1750mm   最高速度 100km/h

 

C58
C58

C58形式テンダ機関車

昭和13年に標準中形客貨用機関車として誕生し、輸送量の多い全国のあらゆるローカル線に使用された。8620に劣らない高速性能と9600に匹敵するけん引力を兼ね備えた万能機関車で、蒸気最終を飾る候補機である。新製両数402両、現役両数は234両。

軸配置 1C1     ボイラー圧力 16kg/cm2
全 長 18.3m    運転整備重量 103t
火格子面積 2.15m2  動輪周出力 880ps
動輪径 1520mm   最高速度 85km/h

 

E10
E10

E10形式タンク1幾関車
戦後昭和23年に急勾配線区専用の大形タンク機として誕生した。国鉄最終設計の蒸気機関車であった。タンク機関車として最大で、5軸の動輪を採用し最強力のD52に匹敵するけん引力を有していた。投入された奥羽線福島一米沢間は間もなく電化されたため、九州、北陸に転用され最後は米原一田村間の小運転に昭和37年まで使用された。新製両数5両、現役なし。

軸配置 1E2     ボイラー圧力 16kg/cm2
全 長 14.5m    運転整備重量 102t
火格子面積 3.30m2  動輪周出力 1300ps
動輪径 1250mm   最高速度 65km/h

(原文ママ)

【さよなら蒸気機関車】入場券・急行券/鹿児島駅

B20
B20

ビーコロちゃん
この写真のB2010は,B20という種類で10号機関車です。小さくて,かわいい機関車ですので「ビーコロ」と呼ばれています。いま日本で1台しか使われていません。写真は,大きなC55とC12機関車があと押しして走るところです。

(解説)
B20形式タンク機関車
この機種は,太平洋戦争中の極度の機関車不足を補うため,資材を極度に節約し,製造工程もごく簡略化して作った戦時設計型の機関車です。戦争末期から終戦直後までを通じて15両つくられました。
この10号機関車は昭和21年に製造されたもので,現在は構内入換機として専用しています。

重さ・15.3トン 長さ・7m 幅・2m67 高さ・3m30 350馬力 最高時速・45キロ 水タンク容量・25トン 石炭積載量・0.9トン

C57
C57

C57形式テンダ機関車

均整のとれたスマートな容姿をもつ,いわば美人形機関車です。貨物列車用C55形を旅客列車用に改良したもので,201両製造されました。

使用初年・昭和12年 全長・約20m 高さ・約4m 機関車自重・約69トン 1040馬力 最高時速・100キロ 動輪直径・1m75

 

C60
C60

C60形式テンダ機関車
C59形機関車(幹線用)を準幹線用に改装したものです。これは線路の構造上,その走る線に適応するよう,機関車の車輪がレールにかかる重さ(これを軸重といいます)を軽くする必要があったからです。C59は173両製造されましたが,これからC60に改装した両数は47両です。

改装初年・昭和28年 全長・約22m 高さ・約4m 機関車自重・83トン 1290馬力 最高時速・100キロ 動輪直径・1m75

 

D51
D51

D51形式テンダ機関車〈愛称デコイチ〉
貨物列車用に作られたもので,耐久力・引張力・姿の3柏子そろったわが国の傑作機関車といわれています。製造両数は1,100両をこえ,戦前・戦中に一部は樺太,台湾,タイにまで渡っております。国鉄の貨物用蒸気機関車の主力を成しており,むかしから重用しています。
最初の1号機関車が誕生したのが,昭和11年の2,26事件のあった数日後だったというのも,何かの因縁だったのでしょう。以後の戦時,戦後の波乱期を,国内輸送の主軸となって文字どおり「大車輪」の活躍を見せました。見るからに男性的で風格をもった姿には,波乱期の歴史を引っ張ってきたという感じがあります。

使用初年・昭和11年 全長・約20m 高さ約4m 機関車自重・約78トン 1280馬力 最高時速85キロ 動輪直径・1m40

 

C61
C61

C61形式テンダ機関車
貨物列車用D51形を旅客列車用に改造した機種です。太平洋戦争中は貨物重点の輸送でしたが,戦後は旅客輸送に重点が移ったため,貨物列車用機関車が余って旅客列車用機関車が足りなくなりました。このために33両をこれに改造しました。昭和33年に登場した鹿児島初の特急「はやぶさ」を索引(※牽引の誤植)した当時の花形機関車です。

改造初年・昭和22年 全長・約20m 高さ約4m 機関車自重・約80トン 1890馬力 最高時速・100キロ 動輪直径・1m75

表紙デザイン・中之間国隆〈国鉄・宮崎運輸長付〉=C61のみ

 鹿児島鉄道管理局(原文ママ)

【蒸気機関車シリーズ】急行券/札幌、小樽

1969年、毎月1枚ずつ、札幌鉄道管理局から発行された「蒸気機関車シリーズ」の急行券です。
以下、番号順に解説を原文のまま引用しておきます。

蒸気機関車シリーズ急行券

(1)義経 1Cテンダ機関車

北海道の幌内炭山の石炭を運ぶため、開拓使が経営した幌内鉄道の手宮一札幌間が明治13年11月28日に開業(日本で3番目)したときに運転された機関車は、1号義経と2号辨慶であった。

義経号はアメリカのポーター社製でカウ・キャッチッヤー(牛除け)やベルを付けたウエスタン・スタイルであると共に空気制動機などの新らしい設備を持ち、運転整備のときの全重量約30トンの当時としては優秀な機関車であった。

明治22年12月に北海道炭砿鉄道に払下げられて石炭輸送などに活躍、明治39年10月には国有鉄道に買収され、7100形、7105号となり新線の建設に使用された。

大正12年5月に大阪府堺市の梅鉢鉄工所に譲渡されて働いていた。鉄道80年に当る昭和27年に国鉄へ寄贈されて、鷹取工場で復元され、現在同工場に準鉄道記念物として保存されている。(原文ママ)

 

蒸気機関車シリーズ急行券

(2)1Cテンダ機関車 大勝号

“大勝号”は北海道炭砿鉄道が日清戦争の際に、石炭増送のため同社の技術陣によって設計し、手宮工場で製造された、道産第1号、国産第2号機関車であった。

これは義経及び弁慶号の予備台粋が1両分あったので、それを利用し、従って主要寸法は義経号とほぼ同じであった。この完成は明治28年10月で、国内は戦争の勝利に湧いていたので“大勝号”と命名された。

これの形式はト、番号は30で、運転整備のときの重量は26.47tであった。

完成後は手宮で入換に使用され、明治39年10月には国に買収されて、7150形、7150となり、手宮や滝川で入換に使用されていた。

大正7年に北海選炭砿汽船株式会社に譲渡されて、炭坑の充填用火山灰採取線で働き、昭和初期に一時休車、昭和16年に再起して同社の煉炭工場で使用され、戦後廃車された。

昭和29年に同社から国有鉄道に寄贈され、苗穂工場で復元、現在は鉄道準記念物に指定されて小樽市手宮の北海道鉄道記念館に陳列されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(3)1D過熱テンダ機関車 9633

9600形蒸気機関車は日本の幹線鉄道が時代の要求によって国有化された後に、主力となる貨物列車用機関車として過熱蒸気を使用し、また当時論議されていた広軌(1435mm)への改造も考慮されて、国産されたものであった。

これらは大正2年から同15年にかけて770両製造され、四国地方を除く全国で重宝に使用され、北海道では大正6年に19608、19612がはじめて倶知安に配置されて急行旅客列車を索引し、また室蘭本線で2400tの石炭列車を索引(※牽引の誤植)したのもこの形であった。

その後日華事変の際には約250両が1435mm軌間に改造されて大陸へ送られてしまった。
9633は大正3年11月に川崎造船所で製造、運転整備のときの全重量は87.9tであった。

これは完成後本州方面で使用されていたが昭和30年3月に小樽築港へ移って入換用などに使われ、昭和42年4月から放送されたNHKテレビ“旅路”には大正時代を代表する蒸気機関車として出演し、茶の間の人気者となった。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(4)1D1過熱テンダ機関車 9908

9900形蒸気機関車は第1次世界大戦の終結によって、一時下降した貨物の輸送量が、大正10年頃から再び増加しはじめたのに対処して、強力な貨物列車用として生れたものであった。

これらの車軸配置は、かって明治30年に日本鉄道が常磐炭の輸送に当って、アメリカに注文した機関車が採用した形式で、そのために日本を代表する意味で“ミカド”形と呼ばれたものである。

これらは大正12年から昭和6年までの間に380両が製造され、その形式称号は昭和3年の改正でD50形となったものである。

これらの用途は主要幹線の貨物列車や勾配線区で、北海道では大正13年に9908、9909の2両がはじめて函館に配置されて、急行旅客列車の牽引をしていた。

9908は大正12年に川崎造船所で製造、運転整備のときの重量は127.14tであった。

完成後は函館に配置され、昭和3年にD509と改番、その後小樽築港、黒松内、岩見沢を経て昭和8年から再び小樽築港に配置され、昭和25年に廃車された。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(5)2C1過熱テンダ機関車 C55 30

C55形蒸気機関車は大正時代に駿足を誇ったC51形(18900形)に代る新鋭機として、昭和10年から製造され、総数62両が主として地方幹線の急行旅客列車に使用された。その最初の2両、C551、C552は小樽築港に配置されて函館本線の急行旅客列車を牽引した。

なお昭和のはじめ頃は航空機の発達に伴って、鉄道でも車両の流線形化が世界的に取上げられ、国有鉄道では電気機関車、電車ディーゼル前車をはじめ蒸気機関車ではC53形の1両と当時新製中であったC55形の21両(C5520〜C5541)に流線型覆が取付けられた。

C5530は流線型のうちの1両として、昭和11年に川崎車両で製造され、運転整備のときの全重量は113.04tであった。これはC5531、C5532と共に北海道へ配置され小樽築港と函館にいて函館本線にさっそうとした姿を現わした。

しかし点検と修繕に不便なことから、戦後に覆いは取外された。現在は旭川機関区に配置されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(6)2C1過熱テンダ機関車 C57 201

C57形蒸気機関車はC55形に改良を加えた急行旅客列車用で、国有鉄道の蒸気機関車としては16kg/cm2の缶使用圧力をはじめて採用したものであった。

これらは昭和12年から同17年までの間に169両、昭和21—22年に32両、計201両が製造されて、当初は東海道、山陽、北陸、常磐などの各線、戦後は本州及び九州の地方幹線で使用され、北海道では昭和22年にC57 200、C57 201がはじめて小樽築港に配置された。

C57 201はこの形の最終機として昭和22年9月に三菱重工で製造、運転整備のときの全重量は116.15tであった。

これは完成後小樽築港に配属されおもに函館本線及び根室本線の急行旅客列車の牽引に当り、その後重油併燃装置を取付けて小樽・釧路間426.9km、旧狩勝越えのロング・ランを行って当時日本で最長の運転距離を記録したベテラン機関車の1両であった。

昭和43年9月から旭川へ移って函館、宗谷、石北などの各線で急行旅客列車などに使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(7)1C1過熱テンダ機関車 C581

C58形蒸気機関車は日華事変の進展に伴って国内の客貨の動きが活溌になり、特に地方線区での輸送量が増加したことと、それらの線区で使用されていた9600形が大量に大陸へ送られたための補充として客貨両用に新製されたものであった。

これらは昭和13年から同19年の間に樺太のものを含めて382両、昭和21—22年に45両、計427両が製造されて全国的に使用され、北海道では昭和13年にC5835、C5836がはじめて室蘭に配置された。

戦争の末期には25両が1000mm軌間に改造されてタイなどへ送られたが、大半のものは輸送中に船舶と共に沈没したということである。
C581はこの形の1号機として昭和13年8月に汽車会社で製造、運転整備のときの全重量は100.2tであった。

これは完成後新鶴見に配置されて試用の後、千葉へ移って総武線で使用され、昭和25年5月30日から北見に配属されて石北、池北、釧網線などの各線で客貨両用に使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(8)1D1過熱テンダ機関車 D51 237

D51形蒸気機関車は昭和10年頃から貨物の輸送量が増加したことに対処して新製された。大形の貨物列車又は、勾配線用機関車で、昭和11年から昭和20年の間に製造された総数は1115両という、1形式では最高のものとなった。

これらは全国の主要線区で活躍し、北海道にはD516、D517の2両が昭和11年に小樽築港に配置されて函館本線で使用された。

D51237は当時、急激に増加した輸送需要と、外地へ転出した機関車の補充などのために、国有鉄道の工場でも蒸気機関車が製造されることになって、苗穂工場で製造した第1号機として昭和13年10月25日に落成し、これの台枠前部鋳物に関係者の名前を刻んだボルトが打込まれている。

運転整備のときの重量は125.10tである。完成後は岩見沢に配置されて石炭輸送に使用され、昭和18年3月から函館に移り、現在は長万部機関区にいて函館本線、室蘭本線で働いている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(9)1D1過熱テンダ機関車D52 468

D52形蒸気機関車は第2次世界大戦の拡大と共に貨物輸送量が増加し、そのために強力な貨物列車用機関車が要求され、他面極度に資材を節約した代表的な戦時設計として生れた、日本で最強のものであった。

これらは昭和18年から製造されたが、終戦時には予定の両数に達せず、製造中のものは昭和21年3月までに完成したもの(を)以て打切った。そのために最終番号のものはD52468 となったが実数は285両であった。

これらは戦争末期の主要幹線で使用され、北海道ではD5221など30両が長万部に配置されて函館本線及び室蘭本線の長大貨物列車を牽引して活躍した。

D52468 はこの形の最終機として昭和21年2月に三菱造船所で製造、運転整備のときの全重量は136.89tであった。

これは完成後沼津に配置されて東海道本線の貨物列車を牽引し、昭和31年11月に姫路へ移って山陽本線で使用され、昭和35年10月から五稜郭でおもに五稜郭・東室蘭間の貨物列車に使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(10)Bタンク機関車 B201

B20形蒸気機関車は日本が第2次世界大戦に突入した頃、資材の節約を図り、作業工程を簡略にするなどの目的を以て設計された、いわゆる戦時形小形機関車の一つであった。

これらは機関区で検査や修繕をする機関車を移動させる場合に、転車台などの長さに制限があるため、特に小形の機関車を必要としたので、戦争末期に製造され、昭和20—21年に15両が完成した。

B201はこの形の1号機として昭和20年3月に国有鉄道郡山工場(当時運輸通信省鉄道総局郡山工機部)で製造、運転整備のときの全重量は20.3t、当時新製された国有鉄道の蒸気機関車としては最小のものであった。

これは完成後盛岡工場で使用され、昭和25年9月に小樽築港へ移って同機関区の入換作業に使用されていた。

しかし戦時設計であったために老朽化したので昭和42年10月に用途廃止となり、処分は保留されたまま同機関区に保存されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(11)2C2過熱テンダ機関車C62 2

C62形蒸気機関車は戦後の日本の復興が進むにつれて旅客列申用機関車が不足したので、当時余り気昧となっていた貨物列車用機関車を連合軍の指示で改造したものの一つであった。

これらはD52形の缶を利用し、自動給炭機を備えた日本で最大の蒸気機関車で、昭和23〜24年に49両製造され、東海道及び山陽本線で使用された。

C622はD52455を昭和23年5月に日立製作所で改造、運転整備のときの全重量は145.17tであった。これは完成後糸崎で山陽本線の急行旅客列車などに使用され、昭和25年8月に宮原へ移ってもっぱら特別急行列車“つばめ”の牽引に当っていた。
そのためC6229と共に前頭の煙除板には流れるように飛ぶつばめの姿が取付けられて、多くの人達から親まれたのであった。

その後幹線の電化が進んだので、これを地方幹線の急行旅客列車に使用するために働輸上重量を軽くして、昭和32年2月から小樽築港に配置し、函館本線の勾配区間である函館・小樽築港間で使用している。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(12)1D2過熱テンダ機関車D611

D61形蒸気機関車は戦後日本の国有鉄道で主要幹線の電化が進められた結果、それらの線区で従来使用されていた貨物列車用機関車が余ってきたので、従台車を改造して2軸台車として機関車の動輪上重量を軽くし、比較的に線路規格の低い地方の支線区でも使用できるようにしたものの一つであった。

これらはD51形を改造して昭和35〜36年の間に6両が完成して、そのすべてが北海道で使用されている。
なおこの形式は国有鉄道の蒸気機関車としては最後に定められたものであった。

D611はこの形の1号機として昭和35年1月に国有鉄道浜松工場でD51640を改造、運転整備のときの全重量は127.55tであった。
これは完成後に豪雪地帯で使用することとなったため、その後に改造した5両と同様の密閉式運転室となった。

昭和35年6月に留萌に配置されて留萌本線及び羽横線の貨物列車の牽引に活躍している。(原文ママ)

【さよなら蒸気機関車】記念入場券/千葉駅

1969年9月30日に、千葉鉄道管理局から発行された「さよなら蒸気機関車」記念入場券3枚セット。

さよなら蒸気機関車
C57形式テンダー機関車

C57形式が初めて千葉管内に配置されたのは、昭和24年(1949年)。それまでC58で牽引していた主要な客車列車に使用し、その高性能ぶりが乗務員に喜ばれた。

大網一土気間にある25/1000(1000m進んで25m上がる)の上り勾配では、ボギー客車7両が定数だったため、8両以上の場合は、後部補機が使われました。

●C5771号の配置歴

昭和13年9月2日 川崎車両で新製
昭和13年9月12日 水戸
昭和19年10月11日 平
昭和24年12月16日 尾久
昭和39年3月1日 田端
昭和40年3月20日 佐倉
昭和44年3月16日 新小岩
昭和44年7月12日 佐倉

走行キロ 270万9100.5km(1969年8月31日現在)

 

さよなら蒸気機関車
8620形式テンダー機関車

8620形式は、C57、C58形式の出現まで、9600形式とともに、国産の代表的な機関車として長く王座にありました。最盛期の昭和12年には、千葉管内配置110両中70両を占め、総武線、房総線の旅客、貨物列車の主力として活躍しました。

 

●28646号の配置歴

大正8年6月10日 汽車車両で新製
大正8年7月25日 青森
大正8年8月8日 福島
昭和2年12月28日 仙台
昭和9年11月29日 原ノ町
昭和12年6月5日 一の関
昭和17年12月20日 仙台
昭和18年11月15日 成田
昭和20年12月27日 八王子
昭和41年8月1日 佐倉

走行キロ 291万8941.1km(1969年8月31日現在)

 

さよなら蒸気機関車
C58形式テンダー機関車

C58形式は、昭和22年には管内配置108両中30両を占めました。C57の配置で一時滅少したものの、昭和41年には34両となり、8620形式についで、管内で両数の多かった機関車。

●C58305号の配置歴

昭和16年11月7日 川崎車両で新製
昭和22年9月15日 一の関
(その後、一の関の水害により履歴不明)
昭和36年3月12日 佐倉

走行キロ 163万8351.6km(1969年8月31日現在)

郵便切手SLシリーズ

日本でもっとも有名なSLの切手シリーズです。

SL切手第1集 D51形式・C57形式 1974年11月26日
記688、記689 2500万枚組

 

SL切手第2集 C58形式・C52形式 1975年2月25日
記690、記691 2500万枚組

 

SL切手第3集 8620形式・C11形式 1975年4月3日
記692、記693 2500万枚組

 

SL切手第4集 9600形式・C51形式 1975年5月15日
記694、記695 2800万枚組

 

SL切手第5集 7100形式・150形式 1975年6月10日
記696、記697 2800万枚組

※「記」というのは、記念特殊切手につけられた整理番号のことです。

 

SL切手

郵政省が発行した「解説書第90号」は、上記のうち、第3集「8620・C11」切手の解説書です。

以下、内容をまとめると、

●10種類のSLのうち、明治生まれが2種、大正生まれが3種、残り5種が昭和生まれ

●鉄道国有化法により、全国の私鉄は統一されたが、機関車の種類が多すぎて修理や点検の手間が負担となっていた。そこで、国産化による統一が図られ、貨物用4600、旅客用8620が生まれた

●8620は名機として名高く、1975年3月の初め頃まで、1両だけ九州の湯ノ前線(熊本県人吉〜熊本県湯前、現在の「くま川鉄道湯前線」)で活躍していた。全部で670両が製造され、「ハチロク」という愛称で親しまれた

●C11は、昭和の初め、不景気によって大型機関車の需要が減り、小型機関車を求める声が強くなったことで、ローカル線にも使えるように作られた。炭水車をつなげず、機関車本体に石炭と水を積む「タンク機関車」で、全部で381両作られた。ミニといっても、石炭と水を満載で重量は70トン近く、動輪の直径も1520ミリもあった。全国で「Cのチョンチョン」の愛称で親しまれた

2C1形テンダー機関車

この形式の機関車は、欧米では急行旅客列車用として広く採用された。1886年、アメリカで開発された火床の大きいパワフルな機関車。日本でも、明治44年にこの形式の8900形式機関車が輸入され、2C形と同時に使用された。

速度の向上と列車重量の増大要求に従って、大型機関車が出現、日本の急行旅客列車としても広く使われた。C53形式は3シリンダで、最も高性能。
8900、C52形式以外は国産。
なお、機関車は2B形から2C形、2C1へと進化している。

蒸気機関車steamlocomotive形式8900 (明治44年使用開始) American Locomotive製

全部で36両のみ。C51形式ができるまで、東京〜下関の急行用として活躍。その後、九州、山陽線へ。老朽化により、汽罐の故障が多かったが、日本製に比べて、はるかに乗り心地がよかったといわれる。

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C51 (大正8年使用開始) 汽車製造、三菱重工業神戸造船所、鉄道省浜松工場
第1次世界大戦で輸送量の増大が目指され、高速で牽引力の大きい機関車が要求されるようになった。そこで、車軸配置4-6-2のパシフィック型として初めて国産化。
C51形式(当時は18900形と命名)の動輪直径は1750mmで、もちろん日本最大。世界でも、狭軌の鉄道としては最大だった。

蒸気機関車steamlocomotive
水槽車

昭和5年、東海直本線に特急「燕」号が運転された際、国府津から名古屋までノンストップとされたため、巨大な30トン水槽車が連結された。その後、「燕」号は静岡にも停車することになり、この水槽車は廃止となった。

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C52 3シリンダ過熱機関車(大正15年使用開始) American Locomotive製
大正の末期、客車は鋼製車に変わり、列車の重量が増した。さらに輸送量はどんどん増大していき、列車の単位も大きいものになっていきます。

当時、欧米でも3シリンダ機関車が多く用いられていたので、日本でも試験的に3シリンダ過熱機関車を輸入しました。

3シリンダ機関車は回転力が均等になるので、揺れが少なくなり、結果として牽引力が増大。さらに排気の回数が多いので、燃料効率もいい。

機関車のみ輸入で、炭水車は日立製作所笠戸工場が製造。大正初年以降、日本は外国の機関車を輸入しないできたため、外国の機関車製造技術を再検討する意味もありました。しかし、この形式は予想より優秀ではありませんでした。
なお、狭軌鉄道で3シリンダ機関車を導入したのは、世界的に見てもきわめて珍しいものです。

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C52。当初は8200形式と命名しましたが、1928年の車両形式称号規程改正でC52形に形式変更

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式C53 3シリンダ過熱機関車 (昭和3年使用開始) 川崎車輌、汽車製造。国産唯一の三シリンダ過熱機関車。単位の大きい急行列車の運行のため建造し、東海道・山陽線の特急などで活躍。

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式C53流線型
速度向上のため、世界的に流線型の外観が流行した。機関車の周囲の空気の渦流を減らし、空気抵抗を少なくするのが目的。写真は昭和9年、鉄道省の鷹取工場でC53を改造したもの

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C53の正面

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C54過熱機関車 (昭和6年使用開始) 川崎車輌、汽車製造

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式C55過熱機関車 (昭和10年使用開始) 川崎車輌、汽車製造、日立製作所笠戸工場
急行用のC53は軸重が大きいため、整備された線路でないと使えない。そこで、C51程度の重量で、構造を変えたものが本形式。目的も外観もほとんどC51と同じ

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C55流線型
すでにC53形式1両を流線型に改造していたが、欧米の流行に鑑み、C55も流線型に改造

 

蒸気機関車steamlocomotive形式C57過熱機関車 (昭和12年使用開始) 川崎車輌、汽車製造、日立製作所、三菱重工業
C51、C54、C55とほとんど同じ目的のために製造されたが、構造上はかなり変化した。最大の改造は、罐使用圧力が16kg/cm2になったこと。

 

蒸気機関車steamlocomotive

形式C59過熱テンダー機関車(昭和16年使用開始)川崎車輌、汽車製造、日立製作所
東海、山陽線で活躍していたC53の老朽化と、3シリンダによる保守の不便を解決するため、2シリンダの新機関車として建造されました。罐の増大と圧力の上昇によって、C53をしのぐパワーを持っています。戦後の同型番は相違している部分も。