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【三菱大夕張炭砿株式会社】入場券・乗車券/大夕張炭山

9201
9201

1D テンダ機関車 9201

9201号蒸気機関車は本鉄道が昭和4年に通洞駅(現大タ張炭山駅)までの延長を完成し、専用鉄道として鉄道省の運転管理を離れ、自主運転を行うに際して、同年5月に美唄鉄道から譲り受けたものである。

しかし実際は昭和3年8月に札幌鉄道局追分機関庫で用途廃止となったものが、名義上美唄鉄道に譲渡され、現車は同年10月に清水沢から直接入線した。これの運転整備のときの重量は76.68t。

これは北海道鉄道部所管の官設鉄道が明治38年4月に鉄道作業局へ移管された頃、北海道内で使用するためにアメリカのボールドウイン機関車工場に発註されたもので、完成時には日露戦争の関係で陸軍省所属となったが、形式番号は鉄道作業局の機関車と同じ系列で、F2形、801号と呼ばれた。

これはその後大夕張炭山駅構内の小運転に使用されていたが、昭和38年1月23日に三菱鉱業㈱上芦別鉱業所専用鉄道へ移り、昭和39年4月に同鉄道の廃止と共に解体された。

 

9600
9600

1D 過熱テンダ機関車 No.3
No.3蒸気機関車は本鉄道が輸送力増強のため、日立製作所に発註したもので、昭和12年に製造された。
これの仕様は、機関車は国鉄の9600形と同じであるが、炭水車は逆行運転も可能なように両側が切り落された、水10m3、石炭5tのC56形のそれと同じで、運転整備のときの重量は89.72tである。

これは入線後、本鉄道が昭和14年4月から地方鉄道として一般営業を開始すると共に、時代の要求に応じた石炭増産が行われたので、9200形の2両や、自社発註のNo.5と共に、混合列車又は石炭列車の牽引に活躍した。

現在は国鉄から譲り受けた96の一群と共に活躍を続けている。

 

C11

1C2 過熱タンク機関車 C 1101

C1101号蒸気機関車は、第2次世界大戦の末期に本鉄道の輸送力増強のため購入されたものであるが、その発註は同系の雄別炭礦鉄道、尺別専用鉄道が日本車輛製造㈱にしたもので、昭和19年7月に製造された。

しかし、雄別炭礦鉄道㈱尺別炭礦は昭和19年9月に休山と決定したため同20年4月20日、本鉄道に引き取られたものである。

これの仕様は、国鉄のC11形と同じであるが、外観などからすれば、C11247号以降のいわゆる戦時形と呼ばれるものに該当し、運転整備のときの重量は67.52tである。

これは昭和20年1月に本鉄道における使用が開始され、その後はテンダ機関車に伍して大夕張炭山—清水沢間の列車牽引にも使用されている。

 

南大夕張新砿落成記念
南大夕張新砿落成記念9600

三菱大夕張炭鉱(株)南大夕張炭礦

南大タ張新鉱は、昭和41年9月石炭鉱業合理化臨時措置法にもとづき、新鉱開発地域として国の指定を受け、同年10月10日の起工式以来4年に亘る歳月をかけ、100億円を超える投資によって、45年8月営業を開始し、南大夕張礦業所として発足をみた。

当礦は、近代的設備を積極的に導入、特に中央官制機構は他鉱に見られない設備で、主要設備の中央監視制御、保安の自重計測と中央監視、情報収集、指令機能の統一これ等設備に伴うコンピュータ活用など、徹底した省力化と保安優先の近代炭鉱として、46年5月竣工式を挙行、46年度は年産90万tの原料炭採掘を計画、順調な出炭を続けており、将来は年産120万tを目標としております。

実収炭量は約2880万tで、石炭の品質も低灰分、高カロリー(発熱量8400カロリー以上)の本邦最優良原料炭であり、いま誕生のよろこびを謳い、限りない発展を秘めているビルド鉱であります。(原文ママ)

【第98回鉄道記念日】入場券/長野駅

2120
2120

2120形式タンク機関車

明治中期の代表的貨物機関車で、2100、2400、2500形式も殆ど同じで、明治の機関車として同系形式の最大両数の528両が活躍した。英国製が多く米国独国からも輸入され、10両は神戸工場で製作された。又一部は日露戦争に野戦用として大陸に渡った。小形の割合にけん引力が強く、本線使用後も入換用として戦後まで長く愛用された。

軸配置 C1      ボイラー圧力 11.3kg/cm2
全 長 10.2m    運転整備重量 49.9t
火格子面積 1.3m2  動輪周出力 530ps
動輪径 1250mm   最高速度 65km/h

 

9600
9600

9600形式テンダ4幾関車

国鉄の機関車は明治期は輸入機が主力で、明治中期に国産機が誕生し大正前期には完全に国産化された。大正2年製の9600は貨物用で、8620とともに国産標準機の第1号であった。ずんぐりした力牛のような形態でけん引力が強く、広火室ボイラーの採用により出力も大きい。新製両数784両、現在なお287両の大量が残って主として入換用に活躍している。

軸配置 1D      ボイラー圧力 13kg/cm2
全 長 16.6m     運転整備重量 95t
火格子面積 2.32m2  動輪周出力 870ps
動輪径 1250mm   最高速度 65km/h

 

C56
C56

C56形式テンダ機関車

昭和10年に簡易線用の小形機関車として誕生した。C12形式タンク機のテンダ版で性能は同一である。簡易設備の支線区の後進運転にも便利のようにテンダの両側が切り取られている。戦時中90両が南方作戦のため海を渡った。新製
両数164両、現役両数は35両。

軸配置 1C      ボイラー圧力 14kg/cm2
全 長 14.3m     運転整備重量 66t
火格子面積 1.30m2  動輪周出力 505ps
動輪径 1400mm   最高速度 75km/h

 

D50
D50

D50形式テンダ機関車

大正12年に誕生した国産標準形の第3号の大形貨物機であった。当時としては画期的の大形機で、自動連結器の採用と相まって貨物列車の単位を大きくし幹線の輸送力を飛躍的に増強した。(当時9600けん引の700tをD50は1000tけん引にした)新製両数380両、現役両数は3両。

軸配置 1D1     ボイラー圧力 13kg/cm2
全 長 20.0m    運転整備重量 127t
火格子面積 3.25m2  動輪周出力 1280ps
動輪径 1400mm   最高速度 75km/h

 

D51
D51

D51形式テンダ機関車

昭和11年に誕生した標準大形貨物用機関車である。大正12年製のD50と性能はほぼ同じであるが、徹底的に改善近代化された。国鉄機関車では最大両数の1115両が量産され、性能とともに国鉄の蒸気機関車を代表する名機である。全国の幹線、亜幹線の貨物機及び勾配線区の客貨機として使用されている。現役両数は756両。

軸配置 1D1      ボイラー圧力 15kg/cm2
全 長 19.7m     運転整備重量 126t
火格子面積 3.27m2  動輪周出力 1280ps
動輪径 1400mm   最高速度 85km/h

(原文ママ)

記念入場券/坂町駅

9600型
9600型

9600形式蒸気機関車は大正2年に誕生し、その後大正年間に784両が製造され、この時代の貨物列車用標準機関車として四国以外の全国各地に配置されました。

以来、50有余年の星霜を経て、現在新潟支社では米坂線にのみ主力機関車として活躍しています。

機関車の特徴は動輪上に火室構造を置いて火床を大きくし、機関車出力の増大がはかられております。このため、機関車は小柄ながらデップリとし、小さな動輪で走る姿はたいへんユーモラスな感じがします。

戦時中は大量270両が大陸や樺太でも活躍しました。

動力車近代化の波とともに数年後には国鉄から消え去る運命のこの機関車に「ご苦労さん」と最後の声援を送ってやりたいものです。

(原文ママ)

 

【蒸気機関車シリーズ】急行券/札幌、小樽

1969年、毎月1枚ずつ、札幌鉄道管理局から発行された「蒸気機関車シリーズ」の急行券です。
以下、番号順に解説を原文のまま引用しておきます。

蒸気機関車シリーズ急行券

(1)義経 1Cテンダ機関車

北海道の幌内炭山の石炭を運ぶため、開拓使が経営した幌内鉄道の手宮一札幌間が明治13年11月28日に開業(日本で3番目)したときに運転された機関車は、1号義経と2号辨慶であった。

義経号はアメリカのポーター社製でカウ・キャッチッヤー(牛除け)やベルを付けたウエスタン・スタイルであると共に空気制動機などの新らしい設備を持ち、運転整備のときの全重量約30トンの当時としては優秀な機関車であった。

明治22年12月に北海道炭砿鉄道に払下げられて石炭輸送などに活躍、明治39年10月には国有鉄道に買収され、7100形、7105号となり新線の建設に使用された。

大正12年5月に大阪府堺市の梅鉢鉄工所に譲渡されて働いていた。鉄道80年に当る昭和27年に国鉄へ寄贈されて、鷹取工場で復元され、現在同工場に準鉄道記念物として保存されている。(原文ママ)

 

蒸気機関車シリーズ急行券

(2)1Cテンダ機関車 大勝号

“大勝号”は北海道炭砿鉄道が日清戦争の際に、石炭増送のため同社の技術陣によって設計し、手宮工場で製造された、道産第1号、国産第2号機関車であった。

これは義経及び弁慶号の予備台粋が1両分あったので、それを利用し、従って主要寸法は義経号とほぼ同じであった。この完成は明治28年10月で、国内は戦争の勝利に湧いていたので“大勝号”と命名された。

これの形式はト、番号は30で、運転整備のときの重量は26.47tであった。

完成後は手宮で入換に使用され、明治39年10月には国に買収されて、7150形、7150となり、手宮や滝川で入換に使用されていた。

大正7年に北海選炭砿汽船株式会社に譲渡されて、炭坑の充填用火山灰採取線で働き、昭和初期に一時休車、昭和16年に再起して同社の煉炭工場で使用され、戦後廃車された。

昭和29年に同社から国有鉄道に寄贈され、苗穂工場で復元、現在は鉄道準記念物に指定されて小樽市手宮の北海道鉄道記念館に陳列されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(3)1D過熱テンダ機関車 9633

9600形蒸気機関車は日本の幹線鉄道が時代の要求によって国有化された後に、主力となる貨物列車用機関車として過熱蒸気を使用し、また当時論議されていた広軌(1435mm)への改造も考慮されて、国産されたものであった。

これらは大正2年から同15年にかけて770両製造され、四国地方を除く全国で重宝に使用され、北海道では大正6年に19608、19612がはじめて倶知安に配置されて急行旅客列車を索引し、また室蘭本線で2400tの石炭列車を索引(※牽引の誤植)したのもこの形であった。

その後日華事変の際には約250両が1435mm軌間に改造されて大陸へ送られてしまった。
9633は大正3年11月に川崎造船所で製造、運転整備のときの全重量は87.9tであった。

これは完成後本州方面で使用されていたが昭和30年3月に小樽築港へ移って入換用などに使われ、昭和42年4月から放送されたNHKテレビ“旅路”には大正時代を代表する蒸気機関車として出演し、茶の間の人気者となった。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(4)1D1過熱テンダ機関車 9908

9900形蒸気機関車は第1次世界大戦の終結によって、一時下降した貨物の輸送量が、大正10年頃から再び増加しはじめたのに対処して、強力な貨物列車用として生れたものであった。

これらの車軸配置は、かって明治30年に日本鉄道が常磐炭の輸送に当って、アメリカに注文した機関車が採用した形式で、そのために日本を代表する意味で“ミカド”形と呼ばれたものである。

これらは大正12年から昭和6年までの間に380両が製造され、その形式称号は昭和3年の改正でD50形となったものである。

これらの用途は主要幹線の貨物列車や勾配線区で、北海道では大正13年に9908、9909の2両がはじめて函館に配置されて、急行旅客列車の牽引をしていた。

9908は大正12年に川崎造船所で製造、運転整備のときの重量は127.14tであった。

完成後は函館に配置され、昭和3年にD509と改番、その後小樽築港、黒松内、岩見沢を経て昭和8年から再び小樽築港に配置され、昭和25年に廃車された。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(5)2C1過熱テンダ機関車 C55 30

C55形蒸気機関車は大正時代に駿足を誇ったC51形(18900形)に代る新鋭機として、昭和10年から製造され、総数62両が主として地方幹線の急行旅客列車に使用された。その最初の2両、C551、C552は小樽築港に配置されて函館本線の急行旅客列車を牽引した。

なお昭和のはじめ頃は航空機の発達に伴って、鉄道でも車両の流線形化が世界的に取上げられ、国有鉄道では電気機関車、電車ディーゼル前車をはじめ蒸気機関車ではC53形の1両と当時新製中であったC55形の21両(C5520〜C5541)に流線型覆が取付けられた。

C5530は流線型のうちの1両として、昭和11年に川崎車両で製造され、運転整備のときの全重量は113.04tであった。これはC5531、C5532と共に北海道へ配置され小樽築港と函館にいて函館本線にさっそうとした姿を現わした。

しかし点検と修繕に不便なことから、戦後に覆いは取外された。現在は旭川機関区に配置されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(6)2C1過熱テンダ機関車 C57 201

C57形蒸気機関車はC55形に改良を加えた急行旅客列車用で、国有鉄道の蒸気機関車としては16kg/cm2の缶使用圧力をはじめて採用したものであった。

これらは昭和12年から同17年までの間に169両、昭和21—22年に32両、計201両が製造されて、当初は東海道、山陽、北陸、常磐などの各線、戦後は本州及び九州の地方幹線で使用され、北海道では昭和22年にC57 200、C57 201がはじめて小樽築港に配置された。

C57 201はこの形の最終機として昭和22年9月に三菱重工で製造、運転整備のときの全重量は116.15tであった。

これは完成後小樽築港に配属されおもに函館本線及び根室本線の急行旅客列車の牽引に当り、その後重油併燃装置を取付けて小樽・釧路間426.9km、旧狩勝越えのロング・ランを行って当時日本で最長の運転距離を記録したベテラン機関車の1両であった。

昭和43年9月から旭川へ移って函館、宗谷、石北などの各線で急行旅客列車などに使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(7)1C1過熱テンダ機関車 C581

C58形蒸気機関車は日華事変の進展に伴って国内の客貨の動きが活溌になり、特に地方線区での輸送量が増加したことと、それらの線区で使用されていた9600形が大量に大陸へ送られたための補充として客貨両用に新製されたものであった。

これらは昭和13年から同19年の間に樺太のものを含めて382両、昭和21—22年に45両、計427両が製造されて全国的に使用され、北海道では昭和13年にC5835、C5836がはじめて室蘭に配置された。

戦争の末期には25両が1000mm軌間に改造されてタイなどへ送られたが、大半のものは輸送中に船舶と共に沈没したということである。
C581はこの形の1号機として昭和13年8月に汽車会社で製造、運転整備のときの全重量は100.2tであった。

これは完成後新鶴見に配置されて試用の後、千葉へ移って総武線で使用され、昭和25年5月30日から北見に配属されて石北、池北、釧網線などの各線で客貨両用に使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(8)1D1過熱テンダ機関車 D51 237

D51形蒸気機関車は昭和10年頃から貨物の輸送量が増加したことに対処して新製された。大形の貨物列車又は、勾配線用機関車で、昭和11年から昭和20年の間に製造された総数は1115両という、1形式では最高のものとなった。

これらは全国の主要線区で活躍し、北海道にはD516、D517の2両が昭和11年に小樽築港に配置されて函館本線で使用された。

D51237は当時、急激に増加した輸送需要と、外地へ転出した機関車の補充などのために、国有鉄道の工場でも蒸気機関車が製造されることになって、苗穂工場で製造した第1号機として昭和13年10月25日に落成し、これの台枠前部鋳物に関係者の名前を刻んだボルトが打込まれている。

運転整備のときの重量は125.10tである。完成後は岩見沢に配置されて石炭輸送に使用され、昭和18年3月から函館に移り、現在は長万部機関区にいて函館本線、室蘭本線で働いている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(9)1D1過熱テンダ機関車D52 468

D52形蒸気機関車は第2次世界大戦の拡大と共に貨物輸送量が増加し、そのために強力な貨物列車用機関車が要求され、他面極度に資材を節約した代表的な戦時設計として生れた、日本で最強のものであった。

これらは昭和18年から製造されたが、終戦時には予定の両数に達せず、製造中のものは昭和21年3月までに完成したもの(を)以て打切った。そのために最終番号のものはD52468 となったが実数は285両であった。

これらは戦争末期の主要幹線で使用され、北海道ではD5221など30両が長万部に配置されて函館本線及び室蘭本線の長大貨物列車を牽引して活躍した。

D52468 はこの形の最終機として昭和21年2月に三菱造船所で製造、運転整備のときの全重量は136.89tであった。

これは完成後沼津に配置されて東海道本線の貨物列車を牽引し、昭和31年11月に姫路へ移って山陽本線で使用され、昭和35年10月から五稜郭でおもに五稜郭・東室蘭間の貨物列車に使用されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(10)Bタンク機関車 B201

B20形蒸気機関車は日本が第2次世界大戦に突入した頃、資材の節約を図り、作業工程を簡略にするなどの目的を以て設計された、いわゆる戦時形小形機関車の一つであった。

これらは機関区で検査や修繕をする機関車を移動させる場合に、転車台などの長さに制限があるため、特に小形の機関車を必要としたので、戦争末期に製造され、昭和20—21年に15両が完成した。

B201はこの形の1号機として昭和20年3月に国有鉄道郡山工場(当時運輸通信省鉄道総局郡山工機部)で製造、運転整備のときの全重量は20.3t、当時新製された国有鉄道の蒸気機関車としては最小のものであった。

これは完成後盛岡工場で使用され、昭和25年9月に小樽築港へ移って同機関区の入換作業に使用されていた。

しかし戦時設計であったために老朽化したので昭和42年10月に用途廃止となり、処分は保留されたまま同機関区に保存されている。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(11)2C2過熱テンダ機関車C62 2

C62形蒸気機関車は戦後の日本の復興が進むにつれて旅客列申用機関車が不足したので、当時余り気昧となっていた貨物列車用機関車を連合軍の指示で改造したものの一つであった。

これらはD52形の缶を利用し、自動給炭機を備えた日本で最大の蒸気機関車で、昭和23〜24年に49両製造され、東海道及び山陽本線で使用された。

C622はD52455を昭和23年5月に日立製作所で改造、運転整備のときの全重量は145.17tであった。これは完成後糸崎で山陽本線の急行旅客列車などに使用され、昭和25年8月に宮原へ移ってもっぱら特別急行列車“つばめ”の牽引に当っていた。
そのためC6229と共に前頭の煙除板には流れるように飛ぶつばめの姿が取付けられて、多くの人達から親まれたのであった。

その後幹線の電化が進んだので、これを地方幹線の急行旅客列車に使用するために働輸上重量を軽くして、昭和32年2月から小樽築港に配置し、函館本線の勾配区間である函館・小樽築港間で使用している。(原文ママ)

蒸気機関車シリーズ急行券

(12)1D2過熱テンダ機関車D611

D61形蒸気機関車は戦後日本の国有鉄道で主要幹線の電化が進められた結果、それらの線区で従来使用されていた貨物列車用機関車が余ってきたので、従台車を改造して2軸台車として機関車の動輪上重量を軽くし、比較的に線路規格の低い地方の支線区でも使用できるようにしたものの一つであった。

これらはD51形を改造して昭和35〜36年の間に6両が完成して、そのすべてが北海道で使用されている。
なおこの形式は国有鉄道の蒸気機関車としては最後に定められたものであった。

D611はこの形の1号機として昭和35年1月に国有鉄道浜松工場でD51640を改造、運転整備のときの全重量は127.55tであった。
これは完成後に豪雪地帯で使用することとなったため、その後に改造した5両と同様の密閉式運転室となった。

昭和35年6月に留萌に配置されて留萌本線及び羽横線の貨物列車の牽引に活躍している。(原文ママ)

郵便切手SLシリーズ

日本でもっとも有名なSLの切手シリーズです。

SL切手第1集 D51形式・C57形式 1974年11月26日
記688、記689 2500万枚組

 

SL切手第2集 C58形式・C52形式 1975年2月25日
記690、記691 2500万枚組

 

SL切手第3集 8620形式・C11形式 1975年4月3日
記692、記693 2500万枚組

 

SL切手第4集 9600形式・C51形式 1975年5月15日
記694、記695 2800万枚組

 

SL切手第5集 7100形式・150形式 1975年6月10日
記696、記697 2800万枚組

※「記」というのは、記念特殊切手につけられた整理番号のことです。

 

SL切手

郵政省が発行した「解説書第90号」は、上記のうち、第3集「8620・C11」切手の解説書です。

以下、内容をまとめると、

●10種類のSLのうち、明治生まれが2種、大正生まれが3種、残り5種が昭和生まれ

●鉄道国有化法により、全国の私鉄は統一されたが、機関車の種類が多すぎて修理や点検の手間が負担となっていた。そこで、国産化による統一が図られ、貨物用4600、旅客用8620が生まれた

●8620は名機として名高く、1975年3月の初め頃まで、1両だけ九州の湯ノ前線(熊本県人吉〜熊本県湯前、現在の「くま川鉄道湯前線」)で活躍していた。全部で670両が製造され、「ハチロク」という愛称で親しまれた

●C11は、昭和の初め、不景気によって大型機関車の需要が減り、小型機関車を求める声が強くなったことで、ローカル線にも使えるように作られた。炭水車をつなげず、機関車本体に石炭と水を積む「タンク機関車」で、全部で381両作られた。ミニといっても、石炭と水を満載で重量は70トン近く、動輪の直径も1520ミリもあった。全国で「Cのチョンチョン」の愛称で親しまれた

1D形テンダー機関車

この形式は、アメリカでは貨物列軍用の標準として使用されていました。日本では、明治26年、北海直炭鉱会社の採用を嚆矢とし、九州鉄道、日本鉄道、官線鉄道でも採用されました。

明治末に国産機関車9550形式が製造され、次いで過熱機関車9580が、大正の初めに9600が製造されました。

9600形式は貨物列車用および勾配線用の標準として重用され、両数も多い。支那事変後、改造を重ね、大陸各地でも活躍しています。

 

蒸気機関車steamlocomotive形式9040 (明治26年使用開始) Baldwin

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式9050 (明治40年使用開始) Pittsburg

 

蒸気機関車steamlocomotive形式9150 (明治39年使用開始) 鉄道省神戸工場。導入当初は、F1形(550, 551)と命名

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式9200 (明治38年使用開始) Baldwin製
奥羽線庭坂〜米沢間の33.3‰急勾配線で使われた。大正になると、4100、4110にその役目を譲った。

 

蒸気機関車steamlocomotive形式9300 (明治40年使用開始) Baldwin製

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式9500 (明治31年使用開始) Schenectady製

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式9500。国有以前の姿

 

蒸気機関車steamlocomotive
形式9550 (大正元年使用開始) 川崎造船

 

蒸気機関車steamlocomotive形式9580 過熱機関車(大正元年使用開始) 川崎造船
国産初の過熱蒸気機関車。9600の登場ですぐに生産中止

 

蒸気機関車steamlocomotive形式9580

 

形式9580
形式9600過熱機関車 (大正2年使用開始) 川崎車輌、汽車製造、鉄道省小倉工場
貨物用として、旅客用の8620とともに、一時代を築きました。中央線、信越線などでは旅客用としても重宝されました。

車両数が多く、1926年5月末で、川崎製710両、汽車製造69、小倉工場12の791両あった。車軸配置2-8-0は、アメリカではコンソリデーションタイプと呼ばれます。

 

蒸気機関車steamlocomotive形式9600